【書評】『ドストエフスキー 黒い言葉』/亀山郁夫・著/集英社新書/1122円
【評者】嵐山光三郎(作家)
ドストエフスキーの『黒い言葉』が稲光りとなって降ってくる快感がある。ロシアでは「黒は豊饒の証」というが、そこに亀山郁夫氏の深い洞察が加わって「豊饒なる熱量」で胸をうちぬかれた。怖い一冊だが、身に沁みた。
第一章は「金、または鋳造された自由」。自筆の最後の手紙は『カラマーゾフの兄弟』印税支払い催促だった。この手紙を書いた日の午後、突然喀血して、二日後に死んだ。金がはいると、弟、兄嫁、甥たち親族から「金の無心」が押し寄せた。
デビュー作『貧しき人々』(非現実的な夢想家)『罪と罰』(老女殺害のラスコーリニコフと予審判事との知的決闘)『作家の日記 一八七三年』『手帳』『地下室の記録』など数多くの名作からもっとも根本的な人間の姿を選出した「黒い言葉」集。「カラマーゾフ」とは「黒く塗られた者」という意味で、ロシア語では「去勢」と「蓄財」は同じ言葉だという。
異端のキリスト教信仰のなかでもっとも苛烈な去勢派は、性器を除去したり焼いたりする苦痛によってイエスと一体化した。去勢派は小銭をためて莫大な富を蓄積した。金は専制的な力だが、同時に人間を平等にする。
妻の死、兄の死、雑誌経営の失敗、と不幸が重なり、莫大な借金を背負い債権者の脅威、海外逃避という窮地のなかで傑作を書いたドストエフスキーという奇跡。
速記者アンナと再婚したドストエフスキーは、ヨーロッパの旅さきで十日間にわたってルーレットに没頭して金を失い、時計、鎖、結婚指輪を売り渡した。『罪と罰』をしのぐ新作を書くと妻に約束して『悪霊』執筆を再開した。フロイトがいう「賭博という自己処罰」のあとに訪れる肯定的意志。
蓄財と蕩尽。人間の隠れた本性は快楽と破滅願望で、ドストエフスキーは苦痛を快楽とするレトリックで、59歳の生涯を終えた。ドストエフスキー箴言集を構想して書き始めたとたんに、コロナ禍という異常事態に遭遇した筆者渾身の格闘録である。今年はドストエフスキー生誕から二〇〇年め。
※週刊ポスト2021年10月8日号