1971年10月3日。テレビ史に残るオーディション番組がスタートした。『スター誕生!』(日本テレビ系)である。この年、大映が倒産し、日活はロマンポルノ路線に転向。斜陽の映画界を尻目に、カラーの受信契約数が1000万を超えたテレビは娯楽の中心となっていた。かつては映画から生まれたスターを自分たちの手で作りたい──。『スタ誕』はテレビマンたちのそんな思いが凝縮された番組であった。放送開始から50年。文字通り、あまたのスターが誕生した番組の軌跡を振り返る。
「人買い」と批判された番組名物の入札制度
一家に1台まで普及したテレビの特性をフルに生かしたタレント発掘番組。それが『スタ誕』であった。成功の要因は2つ挙げられる。1つは「公平・透明な選考システム」。志望者は誰でもハガキ1枚で応募することができ、審査の過程はすべて公開された。それまでブラックボックスだったデビューへの道筋がカメラの前で提示された意義は大きく、一部にあった「芸能界は怖いところ」というイメージの払拭にも貢献する。
もう1つは「きめ細かなバックアップ体制」。テレビ予選合格者には局が費用を負担する各種レッスンが施され、デビュー後は日本テレビの番組に優先的に出演することができた。絶大な媒体力を有していたテレビの支援は芸能プロダクションやレコード会社にとっても魅力的なものであった。
司会にはピンでの活動を始めたばかりの萩本欽一を起用。「僕には無理」と渋る萩本を「素人の味方になってやって」と口説き落とす。審査には番組の企画にも関わった阿久悠のほか、作曲家や声楽家が参加。従来の同種番組と異なり、辛辣なコメントを交えた厳しい審査が話題となる。
さらに、画期的だったのは決戦大会における入札制度。気に入った出場者にプロダクションやレコード会社がプラカードを上げるシステムは「人買いだ」との批判も受けたが、番組の狙いはスカウト側の顔を映すことで、彼らにも責任を負ってもらうことにあった。
鳴り物入りで始まった『スタ誕』の初回視聴率は4.7%。産みの苦しみで、最初のうちは苦戦するが、萩本が“素人いじり”の才能を発揮した「欽ちゃんコーナー」が人気を呼び、数字は徐々に上がっていく。だが番組の評価を確立したのは、第1回決戦大会を経て世に出た森昌子という逸材であった。
1972年に『せんせい』でデビューした森は当時13歳。いきなり大ヒットを記録したことから、同世代の中高生が続々と応募する呼び水となる。その結果、『スタ誕』は10代のアイドル歌手の供給源となった。