【書評】『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』/竹内康浩、朴舜起・著/新潮選書/1650円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
ある書籍の企画で、片岡義男氏とサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」の冒頭を翻訳しあったことがある。そのときに、シーモアの妻の「脚の組み方」が話題になった。膝のところで組んでいるのか、足首を交差させているのか、確かそんなやりとりだったと思う。『謎ときサリンジャー』では、妻が足を組むという細かい動作も謎ときの手がかりになる。
「バナナフィッシュ…」は、作者の「グラス一家サーガ」の第一巻となる短編で、その後に、『ナイン・ストーリーズ』、『フラニーとゾーイ』、「シーモア序章」などがつづく。一九五〇年代、フロリダのリゾートホテルの一室で、三十一歳の男「シーモア・グラス」が拳銃自殺を遂げた―「バナナフィッシュ…」の衝撃のラストはこのように捉えられてきた。シーモアの戦争体験による心的外傷が一因だという解釈が一般的だった。しかしこの「謎とき本」は、この死が未来において予告された必然のものだと解く。そこから、本当に死んだのはシーモアだったのか?と、問うのだ。
さらに、作品後半で、シーモアの星座が間違っている件や、どうして「シーモア」と言わずに「若い男」としか言わないのか?という、読者が見過ごしていた疑問を次々と突きつけ、作者の他作品とも緻密に関連づけて読み解いていく。
有名なsee more glass(「もっとグラスを見なさい」とも聞こえるし、「シーモア・グラス」にも聞こえる)という言葉遊びの真意は? 「おまえの星々を出してくれ」という「シーモア序章」の台詞の意味はなにか? また、サリンジャーにとって、「義足」がどんな役割をもっているのか? 阿波研造の弓道術、オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』、そして芭蕉の句や鈴木大拙の俳句論へ(芭蕉とはバナナの葉のことだ)。
そこには生と死の固定観念を覆すような境地が待っている。「読む」という創造的行為でもって、小説を「書きなおす」とはこういうことだと実感した。
※週刊ポスト2021年10月29日号