「欽ちゃん、久しぶり!」「文化庁長官だって? すごいね~」。対談は和やかな会話から始まった。『スター誕生!』(日本テレビ系)で初代司会(1971~1980年)を務めた萩本欽一氏と、審査員(1971~1981年)だった都倉俊一氏。まさにスターが誕生する瞬間に立ち会い続けた2人が番組の魅力と、知られざる交流を語ってくれた。(前後編の前編)
──お2人が番組に関わったいきさつからお聞かせください。
萩本:当時「コント55号の2人は仲が悪い」と週刊誌に書かれてね。笑いがとりづらくなったの。それでしばらく別々の仕事をしようとしていた時に『スタ誕』の話が来た。司会なんてしたことがないから断わったんだけど、「アシスタントを付けるから」と言われて「じゃあ、1クールだけね」と。きっとそれくらいでクビになるだろうと思ったからさ。
都倉:僕は最初、ピンチヒッターだったんです。忘れもしない、第9回の三鷹市民会館。阿久(悠)さんが音楽賞にノミネートされて収録に来られなかったので、僕が審査員席に座った。
──それが10年近いレギュラーに。お2人にとってはどういう番組でしたか?
都倉:それまでのオーディション番組は大御所の審査員が「上手いですね」と参加者を持ち上げるものばかり。ところが『スタ誕』は阿久さんも松田トシさんも歯に衣着せぬ講評をした。僕にも伝染して(笑)本音を言うようになったけど、その辛口が人気を集めたんです。
萩本:みんながきついことを言うから、僕は逆の立場で参加者を応援した。合格者が出なかった時の「バンザーイ、なしよ」は場の空気を明るくしたかったから。決戦大会でスカウトの札が上がらない時は「上げてよ~!!」ってお願いしたね。
──司会者と審査員は逆の立場だったんですね。
都倉:実は両者の関係が険悪な時期もあったんです。番組が始まってしばらくして、欽ちゃんが観客席の素人をステージに上げたことがあったでしょう?
萩本:参加者はみんな緊張しているから、どうやっても笑いはとれないでしょ。だからアドリブでお客さんを舞台に上げて「欽ちゃんコーナー!」って叫んだの。
都倉:本格的なスカウト番組にしようとしていた阿久さんは「勝手なことをして」と怒ってね。その間、審査員たちは楽屋に引き上げることになった。