「欽ちゃん、久しぶり!」「文化庁長官だって? すごいね~」。対談は和やかな会話から始まった。『スター誕生!』(日本テレビ系)で初代司会(1971~1980年)を務めた萩本欽一氏と、審査員(1971~1981年)だった都倉俊一氏。まさにスターが誕生する瞬間に立ち会い続けた2人が番組の裏話を語ってくれた。(前後編の後編)
──『スタ誕』出身で記憶に残る方のお話を教えてください。
萩本:ある時、都倉っちが「大物が来た」と。レッスンで厳しいことを言うとみんな泣くんだけど、その子は一切動じないって。それが山口百恵ちゃんでした。
都倉:彼女の主演映画『伊豆の踊子』(1974年)を撮った西河克己監督も言っていたけど、彼女には人の目を惹きつける不思議な力がある。今でもアップリケのついたジーンズ姿で『スタ誕』に出場した時の姿が焼き付いていますが、真のスターとはそういうものなんです。
萩本:森昌子ちゃんには申し訳ないことをした。ある時「たわしみたいな頭だね」って言ったら反応してくれなくてね。それ以来、テレビで人の容姿を言うのはやめました。だから彼女は僕にとっての師匠なの。
都倉:僕が作曲した『ペッパー警部』(1976年)でピンク・レディーがデビューした時、松田トシさんが「ミニスカートで脚を開く振り付けは品がない」って怒ってね。レコード会社の上層部からも「もっとオーソドックスな曲でデビューさせたい」と言われたんですが、作詞の阿久さんや振り付けの土居甫さんたちと抵抗して、押し通したんです。
萩本:当時、都倉っちから「“ピンク・レディー”はカクテルの名前からつけた」と聞いて、この人らしいネーミングだなと思ったね。
──番組以外でも出身タレントとの交流はあったのでしょうか。
萩本:僕はあえて距離を置いていたの。岩崎宏美ちゃんはどこで会っても「欽ちゃん!!」って声をかけてくれたけど、あまり親しくすると、『スタ誕』とは関係ないタレントさんは面白くないかもしれないじゃない?
だから司会をやめる時、「今まで笑顔を見せなくてごめんね」ってみんなに謝った。その時、百恵ちゃんが泣いていたという話をプロデューサーの池田文雄さんから聞いたけど、いつか本人に確かめたいな。
都倉:『スタ誕』はスタッフが素晴らしかった。みんな親身になって出身タレントをかわいがっていたし、組織としても全面的にフォローしていた。まさに“スタ誕ファミリー”ですよ。そういう番組はもう出てこないんじゃないかな。
【プロフィール】
萩本欽一(はぎもと・きんいち)/1941年生まれ、東京都出身。1966年に結成したコント55号で一世を風靡。1980年代は“視聴率100%男”の異名をとる。現在はネットでも活動中。
都倉俊一(とくら・しゅんいち)/1948年生まれ、東京都出身。作曲家としてピンク・レディー、山口百恵、山本リンダらに数々のヒット曲を提供。今年4月、文化庁長官に就任。
構成/濱口英樹 撮影/黒石あみ
※週刊ポスト2021年10月29日号