【書評】『灼熱』/葉真中顕・著/新潮社/2860円
【評者】大塚英志(まんが原作者)
ブラジルの終戦直後の新聞をwebで閲覧していて、戦後全米が空飛ぶ円盤に襲われたという奇妙な記事を見つけ、それは「勝ち組」が風船爆弾を暗喩するものでおもしろいなとSNSに書いたら、「勝ち組」とはブラジル富裕層ですかと質問が返ってきたことがあった。
戦時下、日本からの情報が遮断されていた日系移民にしてみれば「敗戦」は寝耳に水で、そこに捏造や願望に満ちたフェイクニュースが口コミから新聞までを覆った結果、「負け」を事実とする「認識派」と呼ばれた人たちへのテロが始まり、双方に多数の死者を出す。この事件が気になったのは、たった今、この国のwebで繰り広げられる陰謀説やフェイクニュースを伴っての「反日」「親日」の語られかたとひどく似ているからだ。
「勝ち組」記事は焦土と化したのは偽装として建造された偽東京であるとか沖縄戦で敵戦力を無力化する兵器が使用されたとかあまりに荒唐無稽だが「日本勝利」が代替現実と化した状況下では常識がいかに脆いかは、近頃仄聞する、親や配偶者が突然陰謀論者になってしまったという笑えない事態から、北米の政治を動かしかけたQアノンまで実は遠い出来事ではない。
そこには「分断」という言葉以上に「勝ち」「負け」が唯一の規範になった新自由主義的な世界の侵食がグローバルな水位である一方で、「日本」という地域に限定すればもはや先進国の座がおぼつかなくなった現実と中国の台頭に対する認め難い「負け」意識が「勝ち組」言説に似た「反日」やそれに絡みつく陰謀説によって「もう一つの日本」をオンライン上に出現させてもいる。
このように忘却された地球の裏側の七十年以上前の歴史が思いがけなく「今」と通底している。本書はフィクションだが、註を見る限りwebも含め丁寧に資料を漁っており、「今」を客体化する手立てが中々見つかり難い中で、「勝ち負け抗争」やその言説から照射するという歴史から今を見る入門書としてまず最初に読まれていいと思う。
※週刊ポスト2021年11月5日号