漫画家としてデビューし、現在は多方面で活躍を続ける、作家・アーティストのさかもと未明氏(56)。特に最近は画家としての活躍が注目を集めており、10月27日からフランス・パリで開催された名門展覧会「サロン・ドートンヌ2021」でも入選を果たし、11月9日からはパリで個展も開催する。現在、渡仏中のさかもと氏が、サロン・ドートンヌ入選についての率直な思いと、入選を経て変化したアーティストとしての意識について綴った。
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9月に「サロン・ドートンヌ入選」の通知をもらった時、封紙に「入選・選外」の項があり、「入選」に丸が点いていた。そんなそっけなさが、むしろきちんとした審査を潜り抜けた証のような気がして、心臓がコトン、と高鳴った。
サロン・ドートンヌは100年以上の歴史を誇る、フランスの名門展覧会だ。とはいえ、その成り立ちはかなり革新的だ。当時のフランスの名門絵画展は「ル・サロン」という、アカデミックな官展が主。とても保守的なもので、ポール・セザンヌやアンリ・マティスら、“未来の巨匠”たちも落選を繰り返した。そこで、ル・サロンに対抗して作られた、「秋のサロン」を意味する展覧会が、サロン・ドートンヌだ。その後、フォービズムやキュビズムなど、絵画史を大転換させる才能を輩出した。日本からは、藤田嗣治、東郷青児、佐伯裕三、ヒロ・ヤマガタらの入選も知られている。
そんな由緒ある展覧会なので、「落ちたとしても恥ずかしくない」という気持ちで応募はしていた。でも、やはり入選は嬉しかった。その嬉しさはじわじわと私の中で広がり、その日、自宅に帰ってきた夫に入選を告げると、「おめでとう。恐ろしくお金のかかる、家事を全然しないで『お絵描き』だけしている奥さんに、これまで耐えてきた甲斐があった」と、皮肉を交えながらも、涙ぐんで喜んでくれた。それが何よりまず嬉しかった。そして、ただの「お絵描き」でなくて「アート」を作っている「画家」だと納得してもらえたのだと実感した。
私は2006年に膠原病に罹患した。一度は余命宣告を受けるまで悪化し、水の入ったコップを持ち上げることもできず、歩行も困難になった。数年間、ほとんどの活動を休止していた。そうした中で、夫の支えもあって、画家として再起することができた。
サロン・ドートンヌに挑戦しようと思ったのは、コロナ禍であったことも理由のひとつだ。2019年、多くの人たちの支えもあって、ホテル椿山荘東京での個展を開くことができた。すぐにパリとラスベガスで個展が決まり、順風満帆に感じていた。でも、その矢先のコロナ禍。ラスベガスの個展は中止が決まり、パリで個展を開くはずだったギャラリーは、長引くロックダウンを機に閉店を決めてしまう。
急転直下で道を閉ざされたように感じていた。2つの海外個展のために、ほとんど何の仕事も入れていなかった。私は時間ができたのをいいことに、夫と2人で、画家たちの伝記映画を見まくった。そこで、名だたる画家たちが落選を続けた「ル・サロン」や、それに対抗して作られた「サロン・ドートンヌ」の歴史を知ることになった。
そんな2020年初めのウェブ検索中、やたら目に飛び込んでくる広告があった。「日本・フランス現代美術世界展 サロン・ドトーヌ協賛」。これは、あのサロン・ドートンヌのことかと調べると、主催するJIAS/欧州美術クラブは、長年サロン・ドートンヌに日本画家を送っている団体だということがわかった。意を決して作品を作り応募すると、幸いにも同展に入選することができた。それならば、と続けて送付された本家フランス、サロン・ドートンヌの公募の案内を見て、応募を決めた。
今ふりかえると、「コロナ禍」が幸いして私に道を開いてくれたと考えることもできる。人間万事塞翁が馬。その後、パリの別のギャラリーで11月に個展を開催することも決まった。10月末のサロン・ドートンヌの直後というタイミングも、天が差配してくれたかのように感じた。