【書評】『立ちどまらない少女たち〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』/大串尚代・著/松柏社/2750円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
むかし、吉本ばなな(当時の表記)の『TUGUMI』を読んだとき、ヒロインのある言葉が『嵐が丘』のヒースクリフとそっくりな気がして驚いたことがあった。
すでに吉本作品には、大島弓子などの少女漫画の影響が指摘されていたが、思えば、昭和四、五十年代の「なかよし」や「りぼん」には、外国のお話を抄訳した漫画冊子が時々附いてきた。つまり、日本の少女漫画は欧米文学に負う部分が大きく、ひょっとして『嵐が丘』と吉本ばななはひいひいお祖母ちゃんと孫ぐらいの関係になるのでは、といった雑感を記したこともある。
さて、そのミッシングリンクを豊富な読書量と丹念な検証により解き明かしたのが、米文学者・大串尚代による大興奮の本書だ。
大串は日本の少女漫画の「文化的水脈」の一つを、米国で十九世紀末から女性作家により盛んに書かれた感傷・家庭小説だとしている。これらの小説群は当時文学的評価こそ低かったが、多大な「感化力」をもっていた。そこに描かれていたのは、娘たちが女性らしい社会規範に従って生きながらも、どこかで「逸脱」し、自立を目指して自己実現していく姿だった。
脱亜入欧を旨とした明治大正期の日本は、そうした未婚・未就労の、まだ何者でもないがしっかりとした自分をもつ若い女性のあり方を、雑誌などを通じて翻訳紹介したのである。大串は、「少女」とは近代化とともに生まれた存在とする。そして大戦後の米国にとって、日本の民主化はアメリカ化と同義だった、と。
本書を読むと『赤毛のアン』、『若草物語』、『あしながおじさん』といった作品群がなければ、吉屋信子の少女小説も、いがらしゆみこ画・水木杏子原作『キャンディ・キャンディ』も、吉田秋生の『BANANA FISH』も生まれなかったろうと思える。『大草原の小さな家』でワイルダーの描いた米国西部フロンティアは西へ西へと進み、ついには海を越えて日本に到着したのだという卓見に唸らされた。
※週刊ポスト2021年12月10日号