【書評】『ロシア海軍少尉 ムールの苦悩』/岩下哲典、アンナ リネア・カーランデル・著/右文書院/2200円
【評者】山内昌之(神田外語大学客員教授)
文化露寇という言葉がある。元寇ならぬ露寇つまり文化三・四年(一八〇六・七)のロシア人の南樺太と択捉(エトロフ)への襲撃のことだ。江戸幕府は、日本人攻撃への報復として国後(クナシリ)に来たロシア海軍のゴローウニン艦長を捕縛し、対抗措置として高田屋嘉兵衛が拉致された事件はよく知られている。この時、ゴローウニンと一緒に逮捕されたのが本書の主人公ムール少尉である。
絵心のあるムールは、日本の役人からも好かれ、やがて日本に帰化して幕府の通訳官になろうとしたスケール感のある若者であった。その「獄中上申書」は、当時の日露関係だけでなくナポレオン戦争下の欧州、ロシアの中東政策にも詳しい史料である。ロシア語原本は見当たらないが、幕府役人・村上貞助が近世日本語に訳した文書が残っている。それを現代日本語に訳し、それをさらに英語に訳したのが本書である。
ムールは日本人がロシアを「殺人者」または「戦争を好む習俗」と考える誤解を正そうとする。蝦夷地には多くの「悪魚」がとれるだけで昆布・アワビ・ナマコをロシア人は食さず、カムチャツカと蝦夷地はともに「悪地な場所」であり、戦争をする値もないと強調する。自分は「ロシアの武士で、もとより夷狄」ではないと轟然と構える。ムールは、ロシアが日本と交易して豊かになるだけでなく、ひたすら両国民の友好を図りたいと素志を述べた。
千島(クリル)列島を南下して択捉次いで国後に上陸し、幕府の出先役人と絵図面による問答を重ねるうちに「網に追い込まれた」ことに気付いた。逮捕監禁されたということだ。
ムールは、「ロシアが戦争を好む」という日本の考えを止めてくれるなら、自分はここで死んでも本望で安心だとまで言い切る。高田屋嘉兵衛の帰国と交換にムールらも祖国に戻る。ほどなくペトロパブロフスクで自殺したムールの心中は複雑だったはずだ。日露交流史の一コマを復元した両氏に敬意を払いたい。
※週刊ポスト2021年12月17日号