テレビの世界でも大人気となった落語家・立川志らく。志らくが、伝説の落語家・立川談志の愛弟子だったことを知らない世代も増えているかもしれない。志らくは日本大学芸術学部演劇学科で落語研究会に所属。1985年、サークルのOBである高田文夫氏の紹介で談志に入門した。当時を振り返る立川志らくインタビュー。【全3回の第2回】
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私は昭和の名人、古今亭志ん生の長男である金原亭馬生師匠の弟子になりたいと思っていたんですが、1982年に亡くなってしまいました。意気消沈しましたが、その時、亡くなった馬生師匠の思い出話を寄席で語る談志を見て、落語に対しての愛情の深さを感じました。この人の落語を聞かないといけないと、寄席に通い出したんです。それまでは口の悪い議員タレントぐらいの認識しかなかった。それがすごい落語をしていて驚きました。
でも談志はその翌年には落語協会を脱退して立川流をつくったので、寄席には出られない。しかも上納金まで取る。なにより、談志が怖い。弟子になるのは本当に嫌だったけど、本当に芸が好きなのはこの人しかいない。大学4年の頃は、その葛藤の日々でした。
その頃、高田文夫先生が落研の合宿に来て、20人くらいいる部員の中で私の落語を聞いて、「才能あるのはお前だけだ。落語家になっちゃえ。なったら売れるよ」と言ってくれました。
「誰の弟子になりたいんだ」と聞かれて、ちょうど高田先生がビートたけしさんと一緒に談志の弟子になった直後だったので、反射的に「先生と同じです」と答えました。「いいセンスしてんなお前。俺が談志の弟子にしてやるよ」と言われ、そのまま弟子入り。当時の談志は、小さん師匠を裏切った形で独立して落語ファンの敵になっていたから、高田先生もそんな言い方をしたんでしょう。
いざ弟子になってみると、想像を絶しました(笑)。こちらは緊張して口もきけないし、向こうはひたすら小言ばかりだし。私は音楽一家の倅で怒鳴られた経験なんてないし、家のことは何一つせず、シャツ一つ畳んだことがない。のほほんと育てられてきたのが、弟子になった途端に、マーガリンのナイフを刺したまま冷蔵庫に入れただけで「ばか野郎! この野郎!」と怒鳴られる。一挙手一投足に緊張して何をしていいのか分からなくなりました。
けれど、そのうち他の弟子より明らかに可愛がられるようになりました。誰よりも早く落語を覚えたからです。「落語を二席覚えてこい」と言われたら四席覚えていく。そうしたら「おっ」となるでしょう。家事や用事を完璧にこなすけど芸事がダメな弟子と、雑用はできないけど芸事をしっかり覚える弟子、どっちが愛いやつかといえば、それは後者ですよ。