毎年出場者に大きな注目が集まるNHK紅白歌合戦。初登場組にサプライズ枠、トリを務める大物歌手などにスポットが当たる一方、多くの歌手が「落選」という挫折を味わってきた。連続出場歌手が見てきた紅白の栄光と影。14回出場した山本譲二(71)が語る。
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18歳で歌手になりたいと故郷を出て、紅白に出るまで13年かかりました。
「みちのくひとり旅」で初出場の知らせを受けたのは『新春オールスター大運動会』の収録現場。騎馬戦の騎馬を組んでいたところで、研ナオコさんや所ジョージさんらが騎馬の上に乗せてくれたんです。それでガッツポーズをしたのが新聞に載りました。
その年(1981年)の紅白は北島(三郎)のオヤジと一緒に出ることができて救われました。出番の直前の袖で、オヤジからこう言われたんです。
「今の喜びを噛みしめるよりも、去年まで出られなかった悔しい気持ちを忘れるな」
初出場の時のことは今でも鮮明に覚えている。歌っているうちにマイクを握る右手が痺れてきたんです。どんな舞台でもそんな状態になったことなんてなかったのに、やはり紅白というのはそうさせるものなのかと。
落選した時は、マネージャーが電話をくれて「譲二、ごめん」という言葉がくる。俺は「来年頑張るから。復帰するように俺はやるから」と言って電話を切る。もう忘れたいから「でも今年の紅白は観ない!」と、年末からツレ、今の女房とハワイに行っちゃう。落ち込むより「くっそー」と少し怒っちゃうわけ(笑)。
日本にいるとどうしてもNHKが目に入るし、気になって仕方ない。だから国外に脱出していましたよ。まぁ、ハワイでも紅白はやってますけどね。だからテレビはつけるな、酒を出せ、という感じで過ごすんです。
「夜叉のように」という歌で(1987年に)出た翌年にも落とされて、その後、紅白に復帰するまでには7年かかったんです。その頃はさすがにちょっと離れちゃったかなぁと腰が折れそうになった。でも諦めたら紅白はどんどん遠くに行っちゃう。
そんななかで父が亡くなって、親父のためにもなんとか復帰するんだという気持ちで歌っていた「関門海峡」で、1994年に紅白に復帰させてもらえた。デビュー20周年もあったからNHKさんが配慮してくださったんじゃないかと解釈しています。