年末のNHK紅白歌合戦に出られるか出られないかは歌手にとって一大事。初登場歌手にサプライズ枠、トリを務める大物歌手にスポットが当たる一方、多くの歌手が「落選」という挫折を味わってきた。連続出場歌手が見てきた紅白の栄光と影。4回出場した仁支川峰子(63)が語る。
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私にとって紅白は、いい思い出しかありません。
デビュー曲「あなたにあげる」は、当時16歳の私が歌うにはかなり際どいセクシーな内容でした。オリコンチャートで12月には1位を獲得、シングルは55.6万枚のセールスを記録したけれど、物議を醸してその年の紅白には出られなかった。
だから翌年(1975年)に初出場を果たした時は、素直に嬉しかった。さすがNHKの計らいがすごいなって思ったのは、私の故郷の人たちを交通費や宿泊費を出して呼び寄せて下さったのね。そうして私が歌う前に「福岡県田川郡赤村の皆さんもお越しです~」と言ってくださった時は、本当にホッとしたし嬉しかったですよ。涙は出ませんでしたけどね(笑)。
紅白に出る前の時点で、月給30万円が150万円に爆増していて、紅白に出てしばらく経ってからは250万円に上がりました。事務所が給料制だったし若かったから文句ひとつ言わなかったけど、紅白出場によってわかりやすくギャラが上がるんですね。
私はね、芸能界デビューしたら両親の家を建てることが目標だったんです。ドラマだ何だと毎日働き通しで休みなんかなくて、それもこれも目標があってこそ、でしたからね。デビュー4年目でその夢が叶えられたのは、紅白に出場できたことが大きかったです。
おかげさまで紅白には4年連続で出させていただきましたが、その後はお呼びがかかることはありませんでした。でも、ショックというよりは、歌手の道から女優にシフトしたことでお仕事の幅が広がるきっかけになったと思っています。落選後に、五社英雄監督の『吉原炎上』『肉体の門』といった作品に出演することもできました。
紅白に出たことによって夢が叶って、落選したことでさらに色んなことに挑戦できるきっかけになった。その感謝の気持ちしかないですね。
※週刊ポスト2022年1月1・7日号