中国の前漢(紀元前206~後8年)の第5代皇帝で名君といわれた文帝(在位前180~前157年)とその母、薄氏(薄太后)のものとされる墳墓が発見され、調査の結果、2021年12月中旬に最終的に文帝の墓であることが確認された。
文帝と薄太后の墳墓からは1000個以上の土偶と3000個以上の金、銀、銅、鉄の装飾品や彩色された陶俑、豪奢な車馬器(馬車用具)などが大量に発掘された。中国共産党機関紙「人民日報」が報じた。
文帝は、漢王朝の建国の父である高祖劉邦と、側室の薄氏との間に生まれ、劉恒と名付けられた。劉恒は外戚として一時、漢の諸侯の代国の王となったが、高祖の妻、呂氏一族が滅亡すると、漢王朝から請われて、文帝として第5代皇帝の座に就いた。20年余にわたる治世で、農業生産の発展に力を注ぎ経済は繁栄し、政府は農民への税金を引き下げるなどの善政を敷いた。
また、彼の息子である第6代景帝も優れた皇帝であったため、両者の治世は「文景の治」と賞賛されている。
文帝の死後、現在の陝西省西安市にある高祖劉邦の墳墓と近い鳳凰嘴(ほうおうし)と呼ばれる山に埋葬されているとされていたが、他の皇帝の墳墓が見つかるなかで、文帝の墳墓だけは発見されていなかった。
ところが3年ほど前、高祖の墓から2キロも離れた谷間で、たまたま別の発掘作業していた考古学者が文帝の名前が刻まれた陶片を発見。発掘調査が開始され、このほど正式に文帝の墳墓と認定された。また、薄太后の墳墓も文帝の墳墓と隣接していることが分かり、大規模な発掘作業が行われ、両者の墳墓からは金銀の装飾品、彩色された陶俑、金銀銅制の車馬器(馬車用具)などが大量にみつかっている。
西安市文物保護考古研究院は「一部の金の装飾品には馬や熊といった動物の模様や、また、異国情調に満ちた文様・装飾もあり、前漢時代には中原地域の農業文明と草原の遊牧文明がすでに交流を重ね融合していたことがわかる。中華文明が『多様性』から『一体化』へ向かう歴史の発展の流れを映し出している」と指摘している。