【書評】『映像研には手を出すな!』/大童澄瞳・著/小学館/607、650円
【評者】大塚英志(まんが原作者)
アニメ版の方を先に見て原作を読むという、作者には失礼な入り方をしたのだが、おかげで原作の主題が逆に鮮明に見えた。
持て余す「妄想力」を開放できなかった主人公が似たような連中と出会い、手探りと高揚を混交させ確実に「仲間」になっていく物語をアニメ版は、年長者の「優しさ」で表現してみせたが、ラストで舞台がこの世界ではなく夢の国なのだと、学園のカットが地球にまで「引き」になったとき、その地形が全く違うことで示してしまった。
ああ「ビューティフルドリーマー」のラムちゃんの夢にしちゃうんだ、と気にはなったが、「毎日が学園祭の日々」は確かにいつか終わるんだしね、とは思った。しかし、再開したまんが版では学校の「外」との緊張関係というか、警戒心とも怯えとも違う覚悟めいたものが、過敏さを持って描かれる。
一つ一つの困難を妄想力と交渉力で乗り切ろうとする主人公グループは変わらないが、その「自由」と世間のバランスを醒めて見ていた生徒会書記の存在感がずしりと増しているのが興味深い。
大人であればこういう時間はいつか終わるとセンチメンタルな優しさやニヒリズムでマウントをついとってしまうが、若い作者はそうではなくて世間が変わっていくべきだと思っている。その外部との「衝突」が具体的に描かれるのかどうかはわからないが、溢れた夢と世界の拮抗はアニメ版を経て先鋭化された主題だ。その不安定なバランスの上に主人公を始めキャラクターたちが確実に配置されていく。
「映像研」のような「仲間」との時間は事実としては残酷に終わるが、作者が描きたいのは負け戦ではない。ぼくら「おたく」世代は結局、綾波に田植えをさせ、その下のゼロ年代は江藤淳を今更持ち出して「田植え成熟論」を語る。それは少しもおもしろくない。
「シン・エヴァ」の後の時代、映像研の面々がこれから感じとる外部をどう作り手は描き闘ってみせるのか。アニメ版のマウントに作品で返そうとするその戦い方を含めて、今のところ間違っていない。
※週刊ポスト2022年1月14・21日号