【著者インタビュー】林真理子さん/『李王家の縁談』/文藝春秋/1760円
【本の内容】
文藝春秋連載時から話題を呼んだ作品の単行本化。梨本宮家に生まれ、朝鮮王朝の皇子に嫁いだものの戦後、王族の立場を剥奪され、「悲劇の王女」と語られることも多い方子妃の結婚は、母・伊都子妃が主導したものだった。その内幕を、伊都子妃の残した日記などをもとに赤裸々に描き出す。時代に翻弄されながらも強く生きた女性たちの姿に胸が熱くなること請け合い。
きっかけは李垠の異母妹の徳恵と宗武志夫妻の写真
梨本伊都子(なしもといつこ)という女性がいた。
旧佐賀藩藩主の鍋島家に生まれ、梨本宮守正王に嫁ぐ。長女の方子(まさこ)は朝鮮王朝の王世子李垠(イウン)に嫁いだ。
侯爵である父が特命全権公使として駐在していたイタリアの都ローマで生まれ、「伊都子」と名づけられた娘は、結婚によって皇族になり、戦後は皇籍離脱により一般市民として生きた。数奇な運命をたどったひとりの女性の人生を、林さんは「縁談」をキーワードに描き出す。
「30年ほど前に『ミカドの淑女』を書いて以来、皇族・華族関係の本が出ると、手に入れて読み込んできました。本棚の一角にはそのコーナーがあります。李王家に関心を持ったのは、李垠の異母妹の徳恵(トケ)と宗武志(そうたけゆき)夫妻の写真を見たのがきっかけで、一種異様な印象で、心に残っていました。徳恵の結婚も伊都子妃が世話をしたと知り、『縁談』というテーマでまとめられるかな、と思ったんですね。『李王家の縁談』というタイトルもすぐ浮かびました」
林さんに取材したのは東京・千代田区紀尾井町の文藝春秋本社。すぐそばにある赤坂プリンスホテルの旧館が、かつての李王家邸だ。
執筆には、伊都子の日記が役に立ったという。
「少女のころから昭和51年に亡くなる直前まで、80年近く日記をつけているんです。誰が訪ねてきたとか、どういう収入があった、いくらお祝い金を渡したとか、事細かに記録しています。日記そのものは宮内庁が『保管する』と持っていって所在がわからなくなってしまったそうですが、小田部雄次先生(『梨本宮伊都子妃の日記』著者)が全部コピーを取っておられたんです」
貴重な史料が後世に残ってよかった。それにしても、なぜ伊都子妃は「記録魔」になったのだろう。
「研究好きの鍋島家の血を引いて、頭も良く、時代が違えば女医さんになったんじゃないかという人なんですね。『最新の月経帯』を考案したりもしています。探求心が強く、何か起こればその原因を突き止めようとする。それから、皇族に嫁いだので、誰にも愚痴を言えなかったのでは。恨みつらみは書かれていませんが、日記に書くしかなかったところもあると思います」
『李王家の縁談』の読みどころのひとつは、李垠と方子の結婚をめぐるいきさつだ。併合された朝鮮と、日本との関係を融和させるための政略結婚で、方子はその犠牲となったと見られ、戦後は「悲劇の王女」と呼ばれた。林さんは、「この結婚は、伊都子から持ちかけたものだった」と見る。
「方子さんにふさわしい相手が当時の皇族男子にはいなかったので、朝鮮王族を相手に選んだんです。伊都子さんから頼まれた、と宮内省にいた人が戦後、講演で話しています。磯田道史先生からも、伊都子の日記にそう読める箇所があると指摘していただいて、私もなるほど、と思いました。
朝鮮滞在中に長男が命を落としたり、戦後もなかなか朝鮮に帰れなかったり、方子さんが大変な思いをされたことは事実です。方子さんも、満洲国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟に嫁いだ浩(ひろ)さん(嵯峨侯爵長女)も、政略結婚と見られた相手に嫁いで、逃げずに最後まで寄り添ったのはすごいなと思いますね」