スポーツ
2022.01.29 11:00
週刊ポスト
東洋の魔女を率いた名将・大松博文氏 選手が語る“鬼の大松”の素顔
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大松博文監督と主将の河西昌枝。河西はチームではコーチ役も(写真/フォート・キシモト)
ニチボー貝塚のトレーニング風景。17時に大松が練習に参加するまでは、レギュラーの6人がその他の選手の指導にあたった(写真/(C)UFO Production)
1964年10月23日、東京・駒沢屋内競技場での決勝戦第3セット。ソ連はマッチポイントの日本を13対14まで追い上げたが、ネット際の応酬でオーバーネットし、東洋の魔女が金メダルを決めた(写真/(C)UFO Production)
コーチもトレーナーも置かず、1人で東洋の魔女を鍛え上げた大松監督。厳しい指導ぶりで「鬼の大松」と呼ばれたが、普段は寡黙で、酒も飲まなかったという(写真/フォート・キシモト)
1964年の東京五輪では圧倒的な強さで「赤い旋風」と恐れられたソ連をねじ伏せ、全勝で金メダルを獲得。魔女たちは涙ながらに大松監督を胴上げした(写真/フォート・キシモト)
東京五輪の表彰式。バレーボールが五輪の正式種目となったのも東京五輪から。国民に向け、河西は金メダルを高々と掲げ、万雷の拍手を浴びた(写真/(C)UFO Production)
国内外公式戦175連勝等記録を残して、大松はニチボー貝塚を去った。その後、同チームは258連勝まで記録を伸ばしている(写真/(C)UFO Production)