1970年代後半に彗星のごとく現れ、40年以上たったいまも日本の音楽シーンに強烈な印象を与え続けているシンガーソングライターの中島みゆき(69才)と松山千春(66才)。3才違いで同じ北海道出身。ほぼ同じ時代を生きてきた二人はどのように誕生し、数々の名曲を生み出すトップシンガーとなったのか。二人をよく知る人々のの証言を基に、その軌跡を辿ってみよう。(全3回の第1回)。
正反対の幼少期
中島みゆきと松山千春はともに北海道出身。だが、二人の幼少期は対照的だ。
中島は両親と3才下の弟の4人家族。父は札幌で産婦人科を開業していたが、その関係で11才のときに帯広に引っ越しをしている。
「幼少時代はかなりおっとりした性格だったようです」
そう語るのは、音楽評論家の富澤一誠さん。
「彼女は自叙伝で自分を“トロイ子”と評していますが、ほかの子と比べて何をするのもワンテンポ遅れる、のんびりしていて引っ込み思案な子だったようです。ただ、比較的裕福な家庭で育った彼女は、子供の頃からピアノやバレエを習っていたそうです」(富澤さん)
一方、松山は姉と弟がいるが、幼い頃より家族の生活は困窮していたという。
父は松山が生まれる1年前に、自分ひとりでローカル紙『とかち新聞』を発刊。以来、細々とその新聞を出し続けていた。
松山は、生まれて2か月で股関節脱臼を起こして北海道大学病院に入院したことがあるが、父が借金をして治療費を払ったという。
松山が高校生の頃から家族ぐるみの親交があった参議院議員の鈴木宗男さんは、当時のことを次のように振り返る。
「彼のお父さんは信念があり、町長であっても忖度なく批判するような人でした。足寄では、『町長さんに背くような人の新聞は買えない』と町民から購読を拒否され、生活はかなり苦しかったようです。そのため、お母さんが働いて生活を支えていたそうですし、千春さんも小学生の頃、アルバイトをして手助けしていました」
足寄は真冬になるとマイナス30℃近くになることもあった。そんな極寒の地で、家の中に吹きだまりができるようなボロ家で子供時代を過ごしたという。
育った環境はまったく異なる二人だが、導かれるように音楽の道へと進んでいく。