1970年代後半に彗星のごとく現れ、40年以上たったいまも日本の音楽シーンに強烈な印象を与え続けているシンガーソングライターの中島みゆき(69才)と松山千春(66才)。3才違いで同じ北海道出身。ほぼ同じ時代を生きてきた二人はどのように誕生し、数々の名曲を生み出すトップシンガーとなったのか。二人をよく知る人々の証言を基に、その軌跡を辿ってみよう。(全3回の第2回)。
デビューのきっかけはコンテスト
アマチュア時代、中島みゆきはさまざまなコンテストに出場しているが、彼女の人生を大きく変えたのが、ヤマハ音楽振興会主催の『ヤマハポピュラーソングコンテスト』。通称『ポプコン』と呼ばれたこのコンテストは、プロの歌手への登竜門となっていた。
中島は1975年の第9回に出場。この年は、八神純子(64才)や渡辺真知子(65才)、松崎しげる(72才)も出場していたが、見事に入賞を果たす。
当時、『ポプコン』のスタッフをしていた作編曲家の船山基紀さんは、彼女の才能に一瞬で魅了されたという。
「『北海道にすごい新人がいるから、お前、アレンジしろ』と上司に言われて手がけたのが、彼女のデビュー曲『アザミ嬢のララバイ』でした。
送られてきたデモテープを聴いたときは衝撃でしたね。まず、『アザミ嬢って誰ぞや?』と。そして曲を聴いて真っ先に、北海道の草原が頭にくっきりと浮かびました。草原の横には小川が流れていて、アザミの花はまだ蕾のままで。アザミ嬢はミステリアスな人だろうと勝手に想像して、冒頭でアルトフルートという変わった楽器を使うことにしたのです」(船山さん・以下同)
だが、このとき中島に会うことはなかったという。
「中島さんはまだ北海道にいて、ディレクターとの打ち合わせにも東京に来ることはなかったですね。だから初めて顔合わせをしたのは、2曲目の『時代』のとき。でも、何を話したのか覚えてないんです」
ちなみに船山さんが中島としっかり打ち合わせをしたのは2006年。TOKIOに楽曲を提供した『宙船』のときだった。
「ぼくの事務所まで来てくれて、『船山ちゃん、よろしくね〜』って。ラジオで聴くような明るくケラケラ笑う中島さんでした。打ち合わせが終わって帰る方向が同じだったからぼくの車で送って行ったんです。そのときも音楽の話をしたわけではなく、共通の友人のことを『あの人、どうしている?』『元気にしているよ〜』といった、いわゆる世間話。それからは一度も会っていないんです」
同じく1975年、一方の松山千春は『全国フォーク音楽祭』の北海道帯広予選に出場している。こちらもプロへの登竜門といわれたコンテストだ(1972年には中島も出場し、入賞している)。
このとき松山は、『旅立ち』を弾き語りで歌っているが、審査員の評価はいまひとつだったという。
「審査員から『ギターがひどい』と言われ、カチンときた彼は『おれはギターの品評会に来たんじゃない! 歌はどうなんですか!』と反論。そんな態度をとったことで望みはないと考えていたようですが予選を通過。北海道大会の本選へと進みます。このとき千春は19才。赤いニッカーボッカーにサングラスといういでたちでしたね」(音楽評論家の富澤一誠さん)