放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、2月5日に54歳で急逝した作家・西村賢太さんについてつづる。
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賢太の苦役列車がやっぱり早々と脱線してしまった。54歳での急死はあまりにも早い。
この時代どうしたって流行らない「私小説家」「無頼派」を名乗り、文学界からも珍しいので少しはちやほやしてもらった。犯罪者を父に持ち、母はどこにいるのか。「東京っ子だ」と胸を張るが江戸川である(別に江戸川が悪い訳ではないが)。中学を卒業してから、アルバイトの肉体労働に明け暮れ、若さゆえ酒、買春、反省の日々。あの強面でびっくりするほどの小心、繊細すぎる神経からいつも仕事では周りとぶつかっていた。
それでも常にラジオ(『ビートたけしのオールナイトニッポン』『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』)だけは欠かさず聴き、私が何を言い、どう行動していたかを知る“耳だけストーカー”の大男であった。顔とは、そぐわないが人一倍江戸のユーモアを理解し、洒落を愛する男だった。
時間があくと浅草演芸ホールへ行く日常である。そして大正時代の藤澤清造に心酔し、闇に葬られた作家の墓を建て、全集を作った。芥川賞受賞時の記者会見「そろそろ風俗へ行こうと思ってました」に日本中が爆笑。ここ一番で必ず笑いを取るというこの「高田イズム」をキチンとマスターしておりました。
文芸誌の編集者達からは「西村さんが会いたがっています」やら「ケンタが“傍流弟子”になりたがっています」なんて声をきくようになったので、私のラジオ番組で会えるようお膳立てしてもらった。
互いの都合もあって生放送の前にあらかじめケンタのコーナーは録音。緊張してるのか少し遅れてるのでスタジオ前のロビーにいると鶴瓶が私を見つけ「センセ、誰待ってはるの?」ときくから、ナイスタイミング。その日の東京スポーツの一面を見せ「この男を待ってるんだよ」。そこには大きな大きな、これ以上大きな文字はない大きさで「芥川賞 西村賢太 風俗3P」とありその下に小さく「印税で悲願実現します」とあった。