山荘に激突する巨大な鉄球、犯人グループによる銃撃の応戦──日本中がテレビにかじり付いた「あさま山荘事件」から50年が経った。あの時、立てこもった犯人たちは何を求め、誰と戦っていたのか。元連合赤軍中枢メンバーの植垣康博氏(73才)が、半世紀の節目に事件を振り返る。(文中敬称略)。【全4回の第4回。第1回 第2回 第3回を読む】
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裁判が続いていた1977年には赤軍派から中東へと飛び出した日本赤軍がバングラデシュのダッカでハイジャック事件を起こし、人質と引き換えに植垣を釈放するよう求めた。だが、植垣はこれを拒否している。
「拘置所に法務省のお偉いさんがやってきて、『超法規的措置で釈放されることになったが、どうするか』と聞いてきたが、『逃げるわけにいかない』と思ったんだよな。誰かが日本に残って事件を総括しなくては、と」
一審判決が出たのは事件から10年目にあたる1982年。自殺した森恒夫に代わり永田洋子が主犯格と位置づけられ、「感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり」として永田の個人的資質が事件に大きく起因したとした。だが、植垣はこれに納得ができない。
「リーダーの資質の問題とするだけでは、この事件の本質を明らかにすることはできない。我々兵士の側も積極的に支えた面もあった。事件の原因には革命運動や党派というものが持つ性格があったのではないか」
最高裁まで争うが植垣らの主張は認められることなく、懲役20年が確定した植垣は甲府刑務所で服役した。服役中は一着数十万円もするミンクのコートを製作する作業に黙々と取り組んだ。小さな窓からは北岳や間ノ岳など南アルプスの山々の美しい稜線が見渡せた。「自分の人生は山と切り離せない」としみじみ思ったという。
事件から26年後の1998年に出所した。刑務所に記者が押しかけ、それを撒こうとタクシーで甲府駅に向かったが、切符の買い方が分からない。追いかけてきた記者に教えてもらい買うことができた。
運転免許を取った時は社会から生きていても良いと認められたような気がした。初めて口座を開設しに銀行に行った時は、「動くな。静かにしろ」と思わず口走ってしまいそうで落ち着かなかったという。塀の中と外との認識の違いに押し潰されそうになると、酒で気を紛らわせた。その後、静岡でスナックを始め、2005年には店の従業員だった33歳下の中国人留学生と結婚。息子をもうけた。