ウクライナ侵攻を続けるロシアのプーチン大統領は、北方領土を事実上の経済特区に指定し、さらにミサイル発射訓練をするなど、日本固有の領土である北方領土での活動を活発化させている。そうした状況に対して胸を痛めているのが、他ならぬ北方領土の元島民たちだ。元島民6人に話を聞くと、ロシアのウクライナ侵攻により、故郷に帰る日がさらに遠のいたことへの深い嘆きが聞かれた。【前後編の後編。前編から読む】
終戦時、北方領土には3124世帯、1万7291人の島民が暮らしていた。現在、ほぼ同数である約1万7000人のロシア人が択捉島、国後島、色丹島に暮らす。歯舞群島に居住するのは警備隊のみで、一般住民は住んでいない。
戦後の日本では北方領土返還運動が広がり、1956年の日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島を引き渡すことが盛り込まれた。
ビザがなくても元島民やその子孫などが北方領土を訪問できる「北方四島交流事業」も始まった。現在、交流事業には「北方墓参」「ビザなし交流」「自由訪問」の3つがあり、これまでのべ3万5000人が参加し、現地のロシア人と交流した。
ソ連がロシアに変わっても、元島民たちは必ず島に戻れると信じて返還運動を続けている。
「年齢を重ねるほど、島に戻りたいという気持ちが強まっています」──そう故郷への思いを語るのは、国後島出身の古林貞夫さん(83)だ。
「私の生まれ育った地域はロシア警備隊の本拠地で、交流事業で国後島を訪問しても生家の周辺に足を踏み入れることができません。小さい時に生まれ育った自分の家のかたちや周りの景色は目に焼きついているのに、もう75年も訪れることができていない。島がどう変化しているのか、この目で見ることだけを念願しています」(古林さん)
択捉島出身の鈴木咲子さん(83)は「その日」が来ることを信じて、70歳を過ぎてからロシア語の勉強を始めた。
「一度だけ飛行墓参をした際、島を空から見て帰ってくるだけなのに、窓の外に故郷が近づいてくるとワクワクしたものです。私は生きているうちに自由に行き来ができるようになれば、向こうでロシアの人たちと一緒に住んでもいいと思いました。幼い頃の占領時に2年間、耳から覚えたロシア語で生活していたわけだし、言葉を覚えておいて損はないとロシア語を習い始めたんです」(鈴木さん)