【書評】『オン・ザ・プラネット』/島口大樹・著/講談社/1650円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
「俺は、その見る目自体が世界に近いっていうか、世界を発生させるための種、みたいに思うな」
本作中にこんな言葉がある。これを受けて語り手の一人である「ぼく」は、個々の抱える「小宇宙」がぶつかって初めて、「世界が立ちあらわれる」のだと考える。
映画研究会で自主制作映画を撮ろうとしている大学生男子一人、女子一人と、その友だちによるロードムーヴィー風の小説だ。彼らは車で移動しながら、あるいは酒を飲みながら、突発的な思い出話に耽り、ときには世界とはなにか、生きるとは、死ぬとはなにかといった思念的な会話を延々と交わしつづける。
ふざけているようでいて真剣であり、本気に見えてなにかを演じているようでもある。虚実の境をぼやかす描き方は、本作が意識している、ジム・ジャームッシュの初期映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」にも通じるかもしれない。
彼らが鳥取砂丘で撮ろうとしている映画は、世界が終わる前のいっときを描くものだ。彼らの無駄話や雑談にもつねに終末への予感がつきまとっている。語り手「ぼく」の母は家を出ていき、その後に父が自殺して、姉もいなくなったこと。「トリキ」の弟が唐突に姿を消したこと。「マーヤ」の毎朝浜辺で会う女の子がそのうち自殺したこと……。喪失と記憶をめぐる濃密な考察が展開する。
作中には、トリュフォーの「アメリカの夜」も引用される。一編の映画とその撮影現場のようすが交互に映しだされるという結構がこの小説と共通しており、「映画の中での愛や情熱は、勢いそのまま観客に、現実に、迫ってくる」といった映画への評は、そのまま本作にも当てはまるだろう。
人間が映画や写真を撮ったり、物語を紡いだり、歌を作ったりするのは、自分たちの生を写しとり存在を継続させるための行為なのかもしれない。そうしてわたしたちは死ぬためのおだやかな準備をしているのではないか。そんなことを思わせる傑作だ。
※週刊ポスト2022年4月8・15日号