かつて「日雇い労働者の街」として知られた東京・山谷は、簡易宿所(ドヤ)に住む元労働者や路上生活者の高齢化に伴って「福祉の街」としての性格を強めている。福祉、介護、貧困といった日本が抱える問題が表面化する山谷地区の現状を、介護ジャーナリストの末並俊司氏がレポートする。
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昼間から薄暗い部屋だ。締め切ったカーテンの隙間からわずかに外光が差す程度である。住人の山本雅基さん(58)はこの日も一日中ベッドの中にいた。6畳一間の室内には、食べ物の腐敗臭と甘ったるい芳香剤、さらに薄く排泄物の匂いが漂っている。
ここは東京都台東区の清川や日本堤、一部荒川区にもまたがる山谷地区だ。山本さんは妻・美恵さんと二人三脚で、2002年に山谷で民間ホスピス「きぼうのいえ」を立ち上げた人物である。かつては山谷や近隣の生活困窮者を施設で受け入れ、2010年にはNHK『プロフェッショナル』に取り上げられるなど、「理想のケア」の体現者として注目を集めたこともある。
しかし、私が初めて山本さんに出会った2018年には、山本さんは「きぼうのいえ」の理事長を解任され、無職の状態だった。妻の美恵さんはその8年前(2010年)に「きぼうのいえ」を去っていた。現在の山本さんは「きぼうのいえ」に程近い場所にあるワンルームマンションで生活保護を受けながら暮らしている。
福祉の担い手だった山本さんが、なぜ福祉の「受け手」となってしまったのか。福祉や介護問題を専門とするライターである私は、その謎に近著『マイホーム山谷』(4月26日発売)で迫った。一連の取材の中で見えてきたのは、山谷の福祉が「よそ者たちの善意」で支えられているという現実だった。
ケアワーカーの善意の危うさ
山谷は大阪の釜ヶ崎、神奈川の寿町と並ぶ日本の三代寄せ場のひとつと言われた場所である。高度成長期には、日雇いの仕事を求め、全国から労働者が集まった。ただ仕事にあぶれる者も多く、収入は不安定だった。労働者の多くはドヤと俗称される安宿で暮らしたが、生活費を節約するためドヤには泊まらず、路上で夜を明かす労働者も少なくなかった。
高度成長期に翳りが見え始めると、日雇いの仕事は急速に減り、路上で生活する人が増え始める。そのまま元労働者たちの高齢化が進んだ。路上での暮らしは危険と隣り合わせだ。健康を害する人も多くいた。路上で亡くなるケースも日常茶飯事だったという。
路上で暮らす生活困窮者を救うため、いつしか山谷にはボランティアで炊き出しなどを行う労働組合や福祉系のNPO法人が集まるようになった。街はそうした「よそ者」たちを受け入れ、独自のケアシステムを形作るようになっていく。
山本さんが妻の美恵さんと二人三脚で立ち上げた「きぼうのいえ」をはじめ、山友会、友愛会、訪問看護ステーションコスモス、ふるさとの会という5つのNPO法人が互いに協力し合い、山谷の福祉を支えている。