放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、幼少期の苦労を笑い飛ばす男、桂雀々についてつづる。
* * *
〈まん防〉解除後、初の週末に大阪は新歌舞伎座へと“さんぽ会”の仲間と行ってきた。あの日、業界的には少しさわぎになった私の“心肺停止8時間”からこの4月11日で10年なのだ。個人的な話で申し訳ありません。あれは2012年。“高田復活10年”ということもあって少し足を延ばしてみようかというわけだ。
ICUに3か月いて、表に出て歩き出したのは杖を頼りに2000歩がギリギリ。仲間のサポートとリハビリもあってよくぞここまでと松村邦洋以外のメンバーにはお礼。誰が言ったか『ラジオリハビリー昼ズ』である。一曲目は勿論『私のハートはストップモーション』。
今回目指すは「芸歴45周年記念公演 桂雀々独演会」。彼の人柄だろう、ゲストも気持ちよくやって来て3月26日(土)昼と夜は立川志の輔。27日(日)は昼夜明石家さんま。
雀々は私の数少ない大阪の友人芸人で、毎年暮れに東京三宅坂の国立演芸場で開催する雀々の会に私も出て、ふたりで客前でイチャイチャトークをする〈チュウチュウネズミ会〉が吉例である。私のひとまわり下のネズミ年が雀々なのだ。スズメなのにネズミ。ギャラは勿論スズメの涙(ウソ、ウソ。家が建つほどもらっている)。
この男の名著『必死のパッチ』にくわしいが、小さい頃母親がいなくなり、その後父親も姿をくらまし、小さなスズメは小学生なのに自炊し学校へ行き電気代を払った。そんな時に見たのが大バケした爆笑王、桂枝雀。なんだか分からない優しさも感じたのだろう。そこに父親像をみたのかもしれない。枝雀の元へ入門。師匠がいちばん大切にしていた名前“雀々”をもらう。幼少期の苦労をカラッと笑いで話す雀々が好きだ。この人なつっこさに東西の看板も新歌舞伎座へやって来た。