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【逆説の日本史】『明治大正見聞史』に記述された乃木希典への当時の日本人のホンネ

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その4」をお届けする(第1336回)。

 * * *
 乃木夫妻が殉死を決行した当日、生方敏郎が勤めていた新聞社(『東京朝日新聞』)の「若い植字工」が「乃木大将は馬鹿だな」と叫び、「夕刊編輯主任」が「本当に馬鹿じゃわい」と続けたのは、いわゆる「乃木愚将論」からでは無い。「他の晩にしてくれりゃいいんだ。今夜は記事が十二頁にしても這入りきれないほどあり余っとる」からであった。悪意か好意かと言えば、むしろ好意から出た発言だろう。

 それゆえ、翌日このニュースは「社会面四段抜き」になった。「軍神乃木将軍自殺す」という大見出し以下あらゆる新聞が美辞麗句を連ね、乃木を褒めちぎっていた。生方は「ただ唖然として、新聞を下に置いた。昨夜乃木将軍を馬鹿だと言った社長のもとに極力罵倒した編輯記者らの筆に依って起草され、職工殺しだと言った職工たちに活字に組まれ、とても助からないとこぼした校正係に依って校正され、そして出来上ったところは、『噫軍神乃木将軍』である。私はあまりに世の中の表裏をここに見せつけられたのであった」(『明治大正見聞史』生方敏郎著 中央公論新社刊)と記している。

 私がこの『逆説の日本史』を書き始めたころは、こうした記述を「明治時代でも目覚めたインテリは乃木の殉死に批判的だった」という類いの主張の根拠にしている人がいた。もちろん歴史学者である。日本語の文章の読解力が無いのか、それともあえて事実をねじ曲げたのかわからないが、これらの記述はそういう主張の証拠にはならない。繰り返すが、「乃木は馬鹿」なのは「他の晩にしてくれりゃいい」のにそうでは無かったからである。殉死自体を批判しているわけでは無い。いや正確に言えば、これらの文章は殉死に対する評価についてはなにも語っていない。しかし殉死についてはともかく、当時の一流新聞社内に軍人としての乃木の能力については強い批判があったことを生方は書き留めている。重大なことなので、その部分をそのまま引用すると、

〈「どだい乃木さんの戦術ときちゃ、なっちょらんよ。西南戦争の時にも、聯隊旗を敵に奪われたのはあの人だった。旅順を攻めるにも、鉄条網も速射砲もあの人の眼にゃ映らないのじゃからね。あの人はただ大和魂さえあれば、何でも出来ると思い込んでいる人だから、たまらないや。そのくせ、どこまでも、真面目で誠実ときているんだから、兵卒はやりきれない」
(中略)
「自分の子供を失ったということは、数万の兵卒を下らなく戦死させたという過失を、決して賠償することにはならない」〉(引用前掲書)

 とくに、前段の発言は志願して予備役の少尉となった「軍事通」の記者の発言なのだが、こういう現場の生の声を記録してくれたのが『明治大正見聞史』の名著たる所以で、ここでわかるのは当時軍事に詳しいと自任する記者ですら乃木希典の軍事的能力をまったく評価していなかった、という恐るべき事実なのである。『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編 日露戦争と日比谷焼打の謎』で述べたように、乃木は日露戦争の旅順要塞攻防戦において、あれだけの要塞をあれだけの短期間に、あれだけの人数で陥落させた。それはむしろ、きわめて優秀な軍人であったことの証拠なのである。ところが「軍事通の記者」が乃木はなにも見ていないと言い、別の記者は「数万の兵卒を下らなく戦死させたという過失」が乃木にはあると言う。これはもちろん朝日新聞社だけが持っていた軍事に対する偏見などと狭くとらえるべきでは無く、広く日本人の常識つまり「ホンネ」であったことに注目すべきだと思うのだ。

 もちろん、この時点ではドイツ軍がフランスのヴェルダン要塞を攻め、数十万人の戦死者を出しながらついに陥落させられなかったという戦い(1916年〈大正5〉)はまだ起きていないが、旅順の戦いはそれまでの戦いとはまったく違う新しい要塞攻防戦だった。その観点から見れば、乃木はきわめて短期間にきわめて少ない戦死者で旅順を見事に陥落させたのである。断じて「数万の兵卒を下らなく戦死させた」のでは無い。だからこそ、敵将クロパトキンも乃木を恐れに恐れたのだ。しかし、日本の世論形成に大きな影響力を持つ一流新聞の記者たちがそんな認識しか持っていなかったのは、やはり特筆すべきことだろう。そしてこの認識というか偏見は、ヴェルダン要塞攻防戦の後も訂正されなかった。もしジャーナリズムあるいは歴史学者が本来の役割を果たしているなら、このヴェルダン要塞攻防戦以後「乃木は単なる真面目な軍人というだけで無く、軍事的にもきわめて優秀だった」という常識が確立されていなければいけない。そしてそういう常識が確立されていれば、陸軍参謀本部が「本当は児玉源太郎(つまり参謀)のほうが乃木(現場の軍人)よりはるかに優秀だった」というデタラメを構築することはできなかったし、そのデタラメに練達の歴史作家司馬遼太郎が惑わされることも無かっただろう。日本のジャーナリズムは、とくに軍事学に関する知識が欠けていると私は思う。その原因は、平安貴族以来の「軍事に疎いのがよい人間」であるという偏見、つまりケガレ忌避信仰に基づくものだが、新聞はこの時代にはマスコミの代表(言うまでも無く、雑誌はあるがテレビもラジオもインターネットも無い)として国民の目や耳になるべきだったのに、すでに述べたように「戦争を煽る」体質を持ったうえに、いま指摘したように戦争に対して的確な分析をする能力が無いという致命的欠陥を持っていた。これが大日本帝国を破滅に導いた大きな原因の一つであると、私は考えている。この点についてはこれからもその都度指摘していくつもりである。

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