【書評】『俳句と人間』/長谷川櫂・著/岩波新書/946円
【評者】川本三郎(評論家)
俳句というとともすれば世を離れた遊びと思われるが、現代を生きる俳人、長谷川櫂は、俳句は時代と共にある、俳句は時代の空気と共にあると考える。
例えば子規。若くして難病にかかり病牀六尺の闘病生活を強いられた子規に「健気な子規」と語られることが多いが、その子規もまた「明治の子」という時代の空気のなかに生きた。「明治の子」は自分よりまず国家のことを考えた。欧米になんとか追いつこうと必死の努力をしていた明治の日本人は、国家の役に立つ人間になろうとした。
だからこそ病床にあってついに国家のために役立つ人間になれなかった子規はそのために苦しんだ。一方、子規の友人、夏目漱石は国家の重荷を感じるがゆえに、その束縛から脱落し、高等遊民の道へと逃がれようとした。
どちらも、「国家」という時代の空気にとらわれた。俳句は決して浮世離れの遊びではない。このあたり、3.11を体験した著者の切実な思いがこもっている。
明治の世では、「生きて国の役に立つことが幸せ」と日本人は考えた。それが昭和の国粋主義の時代には「死んで国の役に立つことが幸せ」と考えた。「生」から「死」への転換が、日本帝国主義国家の敗北の根底にある。
その日本が、敗戦後、「生きているだけで幸せ」と考えるようになった。未曾有の大戦争を経験した日本人の当然の帰結だった。
それが、現代でも続いている。国家はもう信じられない。といって「生きているだけで幸せ」という現状肯定だけでも生きられない。現代の俳句は、この不安と動揺のなかにある。俳句を時代の空気のなかでとらえようとする著者の考えに共感する。
本書を書いている時、一九五四年生まれの著者は皮膚癌になった。いつ転移するか、不安の日々のなかで著者は、もう一度、俳句について考え直した。そして、俳句は時代の空気を反映するだけでなく死という永遠の主題にも関わる文学だと気づいてゆく。
※週刊ポスト2022年4月22日号