ロッテ3年目の佐々木朗希(20)の衝撃の快投。今となっては大船渡高校時代、甲子園行きが懸かった試合で連投回避のため佐々木を登板させなかった國保陽平監督の決断も称賛されている。2019年、佐々木を擁した大船渡は35年ぶりの甲子園を懸けて岩手大会決勝に臨んだ。ところが、花巻東との試合で國保監督は佐々木をマウンドに送らず、2対12で大敗し、甲子園行きの切符を逃したのだ。“あの夏”の判断の裏側には何があったのか―─。ノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。【文中敬称略。前後編の後編。前編から読む】
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あの夏以降、私と國保も冷戦状態が続いていた。2019年の秋季大会では私の質問にだけ無言を貫き、囲み取材後、彼のあとを追うと岩手高野連の本部に逃げ込まれてしまう。
國保に変化があったのは、花巻東との決勝からちょうど1年後、2020年7月の岩手大会初戦だった。
この日、國保は身振り手振りで選手に指示し、メンバーのほとんどを起用した。敗れはしたものの、憑き物が落ちたように晴れやかな表情をしていた。試合後、久しぶりに声をかけるとあの日の真相を初めて語り出した。
「(佐々木を)壊しちゃいけないというプレッシャーがあった。世界の野球の歴史を変えるかもしれない才能を、壊さずに次のステージへ繋げなければならない。そう思っていました。朗希を登板させないことは当日の朝に、歩き方や朗希の表情を見て決めました。高校3年間で一番、ケガのリスクがあるな、と」
試合を放棄したという指摘には強く否定したが、選手への説明が不足していたのは事実だろう。
「事前に佐々木本人に相談したら、『投げたいです』と言うのは明らかだった。野手に伝えたら、『僕らがサポートするので投げさせてやってください』というに決まっています。一言でも相談したら、止められなくなると思いました」
國保は自分ひとりだけが悪者になることを選び、すべての責任を背負い込んだのだ。それにしても、あれだけ拒絶していた私の取材になぜ答える気になったのか。
「私も当時はムキになっていた部分もあるんです。あれだけ詰めかけた報道陣も、今では他に誰も来ませんから……」
ならば携帯電話の番号を教えてほしいと伝えると、國保は一笑に付した。
「僕は2019年に登録した記者の電話番号をすべて着信拒否にした(笑)。公式戦に来ていただけたら、取材には応じます」