幼い頃に戦中、戦後を過ごした人に、思い起こされる「人生最初のごちそう」。 日本が決して豊かではなかった時代、“最初の晩餐”は何であったのか。当時のエピソードと ともに、思い出の料理を完全再現。“おいしい”の記憶と共によみがえる物語とは──。歌手・加藤登紀子さん(78才)に聞いた。
ハルビンからの帰国後庭で作った水餃子
日本の敗戦が色濃くなってきた1943年の暮れ、加藤さんは満州のハルビンで生まれた。病室には軍からの正月用の特別配給で食料の山ができ、母・淑子さんは「きっとこの子は運の強い子になる」と思ったそうだ。
「終戦後、母は幼い兄と姉と私の3人を連れて、日本へ引き揚げてきました。持って帰れるものは数枚の衣類と布団、写真は1枚、食料も少しだけ。船旅で死ぬ人も多い中、なんとか無事に京都の母の実家に辿り着きました」(加藤さん・以下同)
加藤家のごちそうは、満州の暮らしの中で母が覚えたロシア料理の水餃子、ぺリメニ。
「小学校の低学年頃に母のこねた皮に餡を包んでいた記憶があります。たくさん作ってみんなで食べるのよ」
餡はひき肉とみじん切りの玉ねぎを混ぜたもの、皮は小麦粉と卵をぬるま湯で練って作る。誕生日や来客のあるときは決まって作る一番楽しみな料理だった。
「京都で離れを間借りしていた頃は台所が母屋にしかなかったので、庭に七輪を出して調理をしました。母を手伝って餡を皮で包むのが私の仕事。母のペリメニは皮が厚くて本当においしいの。本来はサワークリームをつけて食べますが、当時は辛子じょうゆをつけていましたね」と懐かしそうに目を細める。
加藤さんにはハルビンでの記憶はないと言うが、子供時代のごちそうの中に、その思い出は息づいている。
【プロフィール】
加藤登紀子/1943年中国東北部ハルビン市に生まれる。1946年、2才の頃に、引き揚げ船で帰国。1962年東京大学入学。1965年、「第2回日本アマチュアシャンソンコンクール」で優勝し、歌手デビューする。『百万本のバラ』などが大ヒットを記録し、今年で歌手活動は57年になる。
撮影/平林直己
※女性セブン2022年5月12・19日号