【書評】『地下出版のメディア史 エロ・グロ、珍書屋、教養主義』/大尾侑子・著/慶應義塾大学出版会/4950円
【評者】大塚英志(まんが原作者)
梅原北明と聞けば、ぼくより上の世代はにやりとするだろうが、本書は八九年生まれの著者によって書かれ、その学術的意義や研究書としての細部への目配りには別の誰かが評価すればいいが、近頃、気になるのはこの研究のことを言うわけでないが、かつての「在野」で自明のことであった人や領域や事象がアカデミズムにあたかも新しいことのように「発見」される傾向だ。そして、それがあたかも従来の硬直したアカデミズムの更新に寄与するようにしばしば語られる。
ぼくの世代の印象であれば、梅原北明やカストリ雑誌は、総会屋雑誌あたりで屈折しまくった左派だか右派だかわけのわからない人々が熱心に論じていた対象で、その上に得体の知れない「在野の」などと穏当に形容のしようのない怪物じみた蒐集家がいて、さらにその先に本当にそれらの雑誌を「愛好」する人がいて、ぼくの師である千葉徳爾などはその「愛好」のスレスレ一歩手前の感があった人だ。民俗学の学部講義で、切腹マニアの手記を持ち出され滔々と分析されてもなあ、と思った記憶がある。
しかし、その千葉の師・柳田國男の名著『山の人生』には、平然と「変態心理」などという文字が躍るのだから千葉にすれば当然なのだ。別に世代的なマウントをとるつもりもないが、実は著者が「地下」「裏通り」とする領域と学問は実はもっと近くにあって、深く交わってきたように僕などには思える。
その間に著者の上の世代が線を引き、そしてわざわざもう一度「越境」しなくてはならない環境が作られ、それも難儀だと同情もするが、そこで両者が渾然としていた世界のあり方は回復されるのかといえば、表と裏、アカデミックとそうでないものを所与としそれをたかだか「越境」することで何か人文知が更新される、という直近の上の世代の与える学術的世界像そのものが、実は、あなたが見るべきものを見えなくしていないか、と疑う必要もあるのでは。一般論として。
※週刊ポスト2022年5月20日号