現地ルポ「本土復帰50周年」の節目を迎える沖縄 写真が語る歩みと現在
沖縄国際大学・米軍ヘリ墜落事故:2004年8月13日、米軍ヘリが普天間飛行場に隣接する沖縄国際大学構内に墜落炎上。米軍は即座に現場を封鎖し、沖縄県警は排除された。抗議集会には3万人が参加
市街地の真ん中にあり“世界一危険な飛行場”と呼ばれる普天間飛行場。オスプレイのほか、CH-53大型ヘリやAH-1Z対戦車ヘリなど所属機が並ぶ。基地の約9割が米軍占領と同時に強制接収された
キャンプ・シュワブの新基地建設現場では、建設反対派の抗議にも警備員が一糸乱れぬ隊列で警護する。警備は県外企業が請け負っている
コザ騒動:復帰前の1970年12月20日未明、コザ市(現・沖縄市)で米軍関係の車両80台が焼き払われた。米人車両が横断中の男性に怪我を負わせたうえに、米憲兵が威嚇発砲したことで約5000人の住民が怒りを爆発させた(写真/那覇市歴史博物館)
基地に使用される土地は「軍用地」と呼ばれる。個人所有の土地は強制的に借地化され、日本政府が地主に借地料を支払う。投資先としても人気が高い
宮森小学校・米軍戦闘機墜落事故:1959年6月30日、石川市(現・うるま市)宮森小学校に米軍機が墜落。18人が死亡、約210人が重軽傷を負う沖縄で戦後最大の米軍機墜落事故(写真/那覇市歴史博物館)
米兵少女暴行事件:1995年9月4日、米兵の小学生女児性暴力事件が発生。地位協定により米側は容疑者の身柄引き渡しを拒んだ。事件への抗議と協定改定を求め、翌月の県民大会で約8万5000人が怒りの声をあげた(写真/共同通信社)
那覇市国際通り:雨がそぼ降る復帰当日の那覇市の「国際通り」。戦後、県下でいち早く復興を遂げたことから「奇跡の1マイル」と呼ばれた通りには、「沖縄県」と書かれた看板が何枚も掲げられた(時事通信フォト)
米軍関係者による追突事故:2022年4月、取材中に米軍関係者と思しき車が県民の車に追突した事故現場に遭遇。日本の警察だけでなく、米軍のミリタリーポリスも立ち会い、ドライバーは両者から事情聴取を受けていた
現在、事故で焼け焦げた樹木とヘリが激突した校舎の一部が展示されている
駐留軍等労働者労務管理機構:「駐留軍等労働者」と呼ばれる米軍基地の従業員を集めるために日本が設立した機関。全国で約2万5000人が米軍基地に雇用され、在日米軍の活動を日本国民の税金で支えている
国道を走る米軍車両:沖縄本島北部・金武町の国道329号線を走行する米軍車両。総面積の約15%を米軍基地が占拠する沖縄本島では、こうした光景は珍しいことではない
嘉手納飛行場の施設内で遊ぶ子どもたちの上空には、米軍戦闘機が飛行する。家族などの関係者も含めると、沖縄に在住する米軍関係者の数は約4万7300人(2011年時点。以後は非公表)。
米海軍の港湾基地であるホワイト・ビーチ地区の桟橋。巨大な米軍艦艇の周辺に停泊するのは、海上自衛隊の護衛艦と2隻の掃海艇。同地区には米原子力潜水艦などが過去613回寄港している
辺野古海岸には絶滅危惧種を含む約5300種の海洋生物が生息しているとされる。同海岸域では米軍海兵隊の訓練と県民の多くが強く反対する埋め立て工事が進められている
看板ひとつ隔てた先は、読谷村のトリイ通信施設内にある米軍関係者専用ビーチ。同施設は在沖米陸軍の中枢施設で陸軍特殊部隊(グリーンベレー)が駐留することでも知られている
嘉手納飛行場内「黙認耕作地」:フェンスを隔てた嘉手納飛行場の片隅には、日本の地権者による耕作が黙認されている耕作地がある。米軍と住民との間の妥協案のひとつといわれ、沖縄の米軍基地の各所に見られる
沖縄本島北部にあるオクマビーチは、1977年に一部が返還。沖縄本島で最も美しい海といわれ、人気の高い観光名所のひとつだが、一部は米軍専用の保養地(空軍・奥間レスト・センター)となっている
普天間飛行場のゲート4エリアは現在、宜野湾市が「市民広場」として開放している。ただし、エリア内の野球場やグラウンドを利用するためには、事前の申請が必要になる
浦添市にあるキャンプ・キンザー(牧港補給地区)には、軍関係者の家族住宅や小学校のほか、映画館やボウリング場、野球場などの娯楽施設も整備されている。建設はすべて「思いやり予算」による日本の負担
2022年4月1日にリニューアルした「道の駅かでな」。嘉手納飛行場を一望できるため、ひと目見ようと観光客がカメラを手に訪れる。3階には嘉手納町の歴史を学べる展示室も
普天間飛行場の敷地内にある誘導灯の右手奥に、沖縄の伝統的な墓である石造りの亀甲墓が見える。日本人が勝手に墓参することは許されず、立ち入るためには米軍の許可が必要
沖縄の米軍専用施設