【書評】『柔術狂時代 20世紀初頭アメリカにおける柔術ブームとその周辺』/藪耕太郎・著/朝日選書/1870円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
たがいにジャンルのことなる格闘家が、たたかいあう。そんなイベントが、これまでしばしばもよおされてきた。私などは、アントニオ猪木とモハメド・アリの一戦を、印象深くおぼえている。高田延彦や船木誠勝とヒクソン・グレイシーのそれを想いだす人も、少なくないだろう。
この本は、そんないわゆる異種格闘技のブームを、20世紀初頭の歴史にさぐっている。この時期、日本の柔術、そして柔道は、しばしば欧米に活路を見いだした。あちらでの普及というねらいもあり、現地で他流試合をこころみている。レスラーやボクサーなどとの対戦に、うってでた。
国際的には、日露戦争で日本へ光があたりだしていたころである。とりわけ、その勝利は日本の武術が神秘的にもちあげられるメディア状況を、もたらした。この波にのり、まず柔術、つづいて柔道が、とりわけアメリカで脚光をあびている。異種格闘技戦がもとめられたのは、そんな時代相のせいでもある。
もっとも、日露戦争の結果は日本にたいする警戒心も、よびおこしている。当初もてはやされた柔術や柔道も、すぐに逆風をあびた。その両面を、この本はていねいにときほぐし、説明してくれる。
19世紀のおわりごろから、欧米では、健康な身体をもとめる気運が、高まりだしていた。いわゆるフィットネスの潮流が、うごきはじめている。柔術などは、このトレンドとも波調をあわせ、ヨガめいてうけとめられもした。女性の護身術としても評価されている。イギリスでは、フェミニズムの文脈でも語られた。
なにより、彼地へでむいた日本の武術が現地適応をおこしている点が、興味深い。柔術や柔道は、レスリングなども体得し、変貌をとげていく。その点では、日本の伝統をまもる講道館と、袂をわかった。しかし、その本家柔道も、オリンピック種目のひとつとなり、様がわりをとげている。国際化と伝統の葛藤を、格闘技の歴史という地平で考えさせてくれた。
※週刊ポスト2022年6月3日号