【書評】『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』/井上荒野・著/朝日新聞出版/1980円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
「月島さん、あれはレイプですよ」
六十代の小説講座の講師「月島光一」は元教え子の女性芥川賞作家に、そんな言葉を突きつけられる。月島は元編集者で小説への情熱は人一倍。何人もの生徒をデビューさせ、カリスマとしてもてはやされていた。
ところが、贔屓にしていた元教え子の女性「九重咲歩」が彼に性暴行を受けたと週刊誌に告発。前述の芥川賞作家「小荒間洋子」からも告発があり、月島は社会からおわれる形になる。
彼は驚き、憤る。あの場には暴力も恫喝もなかった。「自然な」流れでのセックスだったと。事実、咲歩は三度もホテルに来たし、小荒間も二人で計画したその取材旅行によって小説を書き、デビューしたではないか。性行為は小説修行に欠かせなかったのだと。
彼に同意する人はいると思う。女たちは利を得たのに、なぜ今ごろ訴えでるんだ。月島にふられた鬱憤晴らしではないのか──『生皮』にはその通りの反応をする人々が出てくる。月島を庇う女たちもいる。
だが、性暴行やパワハラは瞬時に起きるものではない。そこに至る道程で、弱者への暴力や貶めはすでに無数に行われているのだ。月島の妻も大学在学中にデビューした作家だった。彼女が離婚したいと強く思うのは、夫の「不倫」が発覚した時ではない。自分が夫の教え子たちに小説家として紹介されなかった時だ。あるいは、月島に心酔する既婚女性は、長年夫に蔑まれ「あんた」としか呼ばれないことに深く傷ついている。
レイプとは生皮を剥がれ、血を流しつづけること。小説は自分の皮を剥いでいく営みだが、それは他人に剥がれることとは違うのだと、小荒間は言う。
作者は小説で読者を「啓蒙」する気はないという。小荒間の亡夫の妹や、月島を一瞬見かけただけの男子学生まで、多様な背景と考えの人物が多く登場し、安直な直線的思考にストップをかける。這うようにして読み通して本当によかった。
※週刊ポスト2022年6月3日号