明治維新後の日本を支えた人材
歴史をひもといてみると、日本というのは時代の代わり目にすごいことをやっています。明治維新です。これによって日本は、封建制の国から近代国家へと一気に生まれ変わりました。こうしたドラスティックな体制転換を日本が実現できたのはなぜなのかということを、私は長年の研究テーマにしています。
そこで注目すべきなのが、1860年代にアメリカに派遣された「万延元年遣米使節団」です(図表2参照)。
これは、安政7年(1860年/3月に万延に改元)に、日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節団が派遣されることになりました。ただし、日本の船では危ないというので、アメリカが軍艦ポーハタン号を提供してくれたそうです。その使節団の正使、つまり批准書を持っていくのは、当時39歳の新見正興(しんみまさおき)、副使は48歳の村垣範正(むらがきのりまさ)でした。その下に監察という役職をもつ34歳の小栗忠順(おぐりただまさ)がいました。
小栗忠順は、私が知る限り、近代日本の歴史の中で最も頭の良い人物です。彼は若くして外国奉行をやっています。これは今で言うところの外務大臣です。それから、勘定奉行、すなわち江戸幕府の中の大蔵大臣もやりましたし、江戸の警察・消防・司法などを束ねる町奉行や、陸軍奉行、軍艦奉行なども務めていました。まさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍です。
そうした重職につく以前、小栗はこの遣米使節団の中では通商交渉をやっています。それは、フィラデルフィアの造幣局に行って、アメリカのドルと日本の円の為替レートを見直す際の交渉でした。それまでは、アメリカが一方的に1ドルも日本の1両も同じ金貨だから、その重さで換算していましたが、小栗忠順は日本の金のほうが純度が高いのだから、それによって交換レートも補正しなくてはいけないと主張したのです。
この主張については、アメリカ側も認めたのですが、補正の計算方法がわからない。すると小栗は和算を使って、彼らの見ている前でその補正値をパチパチと弾き出しました。アメリカ側がその計算の正しさを確認するまで何日もかかったといいます。この小栗の明晰さとタフ・ネゴシエイターぶりはニューヨークタイムズでも絶賛されました。
それで、使節団がニューヨーク入りした時には、ちょんまげに刀を差しているというので、街中あげて紙吹雪で歓迎されています。私は個人的に小栗という人物を敬愛しているので、横須賀にある小栗の銅像をしばしば訪ねています。