ロッテ・佐々木朗希の完全試合を筆頭に、投高打低が目立つ今季のプロ野球。ただ、かつてのプロ野球の“絶対的エース”の活躍は、今の比ではなかった。中でも凄まじかったのが、1961年に中日に入団した権藤博。その活躍ぶりは、今では考えられないものだった。(文中敬称略)【全3回の第2回。第1回から読む】
通算350勝を上げた阪急のエース・米田哲也をして、「あのストレートは本当に凄かった」と言わしめたのが、中日の権藤博である。1961年に中日に入団し、ルーキーイヤーから凄まじい活躍を見せた。1年目に35勝19敗、310奪三振、防御率1.70。69試合に登板したうち44試合が先発で、32試合に完投した。
投球イニングは実に429回1/3。現代の先発投手の2倍以上の水準だ。毎日のように投げることから「権藤、権藤、雨、権藤」と形容されたことは広く知られている。2年目も61試合に登板し、30勝17敗で2年連続最多勝。ただ、全盛期と言えるのはそこまでだった。登板過多による右肩痛で3年目は成績が急落。
「とはいえ、それでも45試合に登板し、10勝12敗。220回2/3を投げた。去年の沢村賞の山本由伸(オリックス)より多い」(スポーツ紙編集委員)
投手としては実働5年のプロ通算82勝だった。本人は今、当時をどう振り返るのだろうか。権藤に聞いた。
「うーん、今さら言われてもね……(苦笑)。そういう時代だったんですよ。稲尾(和久)さんや杉浦(忠)さんがいて、一人で投げて勝つというのがエースの勲章だった。特に“リーグを代表するエース”と呼ばれる投手は、監督に言われたら投げるしかない。監督はトレーナーとかと相談しながらやってくれていましたが、入団1年目は巨人と優勝争いしていたので、肘が痛い、肩が痛いとか言っていられなかったしね」
「悔いはありません」
先発ローテーションが確立した時代であれば、通算の勝利数はもっと多かったかもしれない。短命に終わった野球人生に、悔いはないだろうか。そう聞くと権藤は「ないですね」と即答した。
「“一発やってやろう”と思ってノンプロから入ったんです。今の生活から抜け出したいという思いが強かった。定年までサラリーマンを勤め上げてもらえる給料や退職金とかに比べて、プロで成功すれば何十倍、何百倍ももらえる。一発に懸けて精一杯やった結果なんだから、そこまでだったんですよ。サイ(稲尾)には勝てんということ。終わってみたら、モノが違ったんです」