【書評】『亡国の環境原理主義』/有馬純・著/エネルギーフォーラム/1540円
【評者】岩瀬達哉(ノンフィクション作家)
2050年に全地球規模での脱炭素化をめざす「カーボンニュートラル」は、熱を帯びたカーニバルのようだ。日本においても、官民あげて「踊らにゃ損、損」とばかり、「カーボンニュートラルの阿波踊り」祭りの真っただ中にある。
1990年代にはじまる地球温暖化交渉を、エネルギー部門の通産官僚としてフロントで見続けてきた著者は、この過熱ぶりに懸念をしめす。先進国と途上国との国益をめぐるつばぜり合いで痛感したのが、「EU発の基準をグローバルスタンダードにすることで先行者利益を得ようという、したたかな計算」だった。EUが仕掛ける武力を使わない戦争との思いである。
国際会議の場で首相などが表明する数値目標は、企業や自治体の掲げるスローガンと違って、その実現を約束するものであり、「各段に重み」がある。環境問題は「地政学問題や安全保障問題を含めた大きな構図」の中にあり、日本の環境大臣が思いつきで、セクシーで野心的な目標という根拠のない数値を掲げれば、格好のカモにされてしまう。
脱原発と再生可能エネルギー促進をかかげるドイツを手本に、日本も再エネ促進のための補助金ともいうべき固定買取価格制度を導入した。いまやこの制度で捻出される補助金は、「当初1800億円」だったのが「3.8兆円」にまで拡大したという。
だが太陽光や風力発電の発電量は伸びていない。そもそも再エネは、「天候に左右される間欠的」なエネルギーであって、「日が照るとき、風が吹くときしか発電しない」。買取制度によって割高となったコストは、そっくりそのまま国民に付け回しされているのである。
しかもその太陽光パネルは、ウイグル人の強制労働と、大量のCO2を吐き出す石炭火力で作られた中国製が7割を占めるという。政治家の好む「野心的な目標」は、祭りでの威勢のいい掛け声にすぎない。根拠もなく積みあげられた数字のさきに著者が見るのは、環境問題での日本の敗北である。
※週刊ポスト2022年6月10・17日号