中日・根尾昂の投手転向が話題を呼んでいる。根尾は大阪桐蔭高校で2年の春から4季連続甲子園に出場し、3年の春には優勝投手になった。2018年のドラフト1位で中日に入団した後は野手一本で臨んできたが、レギュラーには近づけず。今年就任した立浪和義監督の意向もあって、今回の投手転向となった。異例の配置転換に批判の声も多いが、こんな見方もある。
「まだ22歳ですし、150キロを投げられるわけですから投手として大成する可能性は十分にありますよ。『今回挑戦するなら、最初からピッチャーで行けば良かった』という声もありますが、この3年間は肩や肘を休める意味で大きかった。最近の甲子園の優勝投手は昔と比べれば、球数は少なくなっています。そうはいっても、2018年春のセンバツ覇者である根尾は3回戦から決勝戦までの5日間で3試合に登板し、392球を投げています」(プロ野球担当記者。以下同)
当時の記録を見ると、根尾は3月31日の明秀学園日立との3回戦で153球完投、4月3日の三重との準決勝では5回からマウンドに上がって延長12回まで投げ切って99球、4月4日の智弁和歌山との決勝戦では140球完投という成績だった。
「昭和の高校野球と比較すれば、そこまで球数が多いように見えないかもしれないが、酷使に変わりはない。今のプロ野球は中6日100球以内が主流ですからね。連投して233球は、やはり高校生にとって負担は大きいでしょう。当然、甲子園以外の対外試合や練習でも相当な球数を放っている。確実に投手としての蓄積疲労はあったはずです」
“松井キラー”としてカムバック賞
根尾のように打者から投手に転身した最近の例では、遠山奬志(阪神→ロッテ→阪神)がいる。高卒1年目の1986年に8勝を挙げた遠山は翌年以降、毎年のように肩痛や肘痛を繰り返し、1990年オフにロッテにトレード。それでも投手として再起できず、移籍5年目の1995年に外野手に転向。翌年にイースタン・リーグで最多安打を放ったが、一軍での出場機会はほとんどなく、1997年に解雇された。
そのオフ、打者として古巣・阪神の入団テストを受けたが、首脳陣の意向で投手として採用に至った。そして、野村克也監督が就任した1999年からチームに欠かせない中継ぎとして、3年連続50試合以上に登板。巨人の松井秀喜を徹底的に抑えて“松井キラー”と呼ばれ、1999年にはカムバック賞を受賞した。