【書評】『雨滴は続く』/西村賢太・著/文藝春秋/2200円
【評者】与那原恵(ノンフィクションライター)
今年二月、急逝された西村賢太さん。本書は、二〇一六年に雑誌連載を開始し、最終回執筆中に世を去ったため、未完の遺作となった千枚におよぶ私小説だ。デビュー時から書き紡いできた「北町貫多」シリーズで、貫多は西村さん本人。作家として歩み出す過程を微細に描くが、一気に読ませる。
貫多は三十七歳。同人誌に発表した短編が大手出版社の文芸誌に転載されたことをきっかけに、別の文芸誌からも執筆依頼が続く。初の中編小説が思いもかけず「巨勢輝彦」(久世光彦)に絶賛され、芥川賞候補にもなる。この間にふたりの女性と出会い、貫多の胸のうちは激しく揺れ動くのだが、それは彼が勝手に燃え上がったゆえで、妄想したり、激怒したり、絶望したりを繰り返す。また、彼を見守る唯一の存在ともいえる古書店主の「新川」には理不尽な要求を突き付けては困らせている。
貫多の独白を軸に、さまざまな人物の語り口も得も言われぬ面白味があり、西村さん独得の古風な言葉も文体にうまくなじんでいる。〈根が馬鹿の中卒〉〈根が病的な理想主義〉〈根がスタイリスト〉などの「根が何々」が頻出し、そのたびに噴き出してしまうのだが、これも絶妙な効果になっていて、稀有な才能の作家だったとあらためて思うばかりだ。
西村さんは十代から日雇い労働をしながら本を読んだ。〈私小説に対する敬意は人一倍に有している〉彼は創作への思いも明かしている。作品にとりかかるとき、シノプシス(あらすじ)を用意するのは〈ラビリンスにも出口が必ずあることを指し示した上でないと〉、書きだす勇気が出ないからだ。若き彼がラビリンス(迷宮)に置き去りにされていたようなものだったとしたら、書くことはそこからの唯一の出口だったのだろうか。
こんなイメージが頭に浮かんだ。荒地に立つ一本の木。複雑に根が絡んでいて、幹は太い。雨滴が葉を茂らせ、数十年に一度しか咲かない可憐な花が開花したのに、わずかな時間で散ってしまった。雨滴とは文学だった。
※週刊ポスト2022年7月22日号