【プーチンと習近平・連載第3回】過去にプーチンから父親の写真集を手渡されたことでロシアに親近感を持った習近平。息子が父に対して抱える複雑な想いの裏には、父が歩んできた壮絶な「挫折の人生」があった──。ジャーナリスト・峯村健司氏がレポートする。(文中敬称略。第1回から読む)
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最初で最後の訪ソ
中国の副首相になったばかりの習仲勲は1959年8月、機械工業省の幹部らを引き連れて、ソ連を訪問した。通訳として同行したリュドミラ・ドミトリエヴナはロシア人研究者のインタビューに対し、当時を次のように振り返っている。
「訪問団は数週間かけて、機械製造や金属加工などの工場を訪れ、ソ連の先端技術を視察しました。習仲勲氏はいつも笑顔を絶やしませんでした。私が通訳しやすいように、わざわざ短く話をしてくれる気配りをしてくれました」
中でも習ら一行が注目したのが、鉄鋼と石炭に関する技術だった。
その前年の1958年夏、毛沢東は「大躍進運動」を打ち出した。農作物の増産のほか、鉄鋼の生産を1年間で倍増させるという野心的な目標を掲げた。中国では工業化が遅れており、鉄鋼を製造する工場が十分にはなかったことから、農村に粘土で釜を築き、鉄を溶かして鋼鉄を造る製法を進めた。
ところが、粘土釜では温度が十分ではなく、鋼鉄の質が悪く使い物にならなかった。しかも、燃料として大量の石炭を使ってしまったため、本来の工場で使用する分が足りなくなってしまい、かえって生産力が落ちてしまった。
そこで毛沢東は、ソ連式の技術を導入するため、習をソ連に派遣した。ソ連の技術者を中国に招いて、中国の鉄鋼生産の立て直しを図ろうとした。
だが、習の訪ソはこれが最初で最後となった。習の出発の直前の1959年7月、共産党内で権力闘争が激化する。
江西省北部、廬山で開かれた共産党中央政治局拡大会議で、国防相の彭徳懐が、大躍進運動を批判する書簡を毛沢東に送った。彭は朝鮮戦争では司令官を務めた毛の右腕だった。にもかかわらず、解任されて失脚に追い込まれた。
「罪状」の一つとされたのが「外国との内通」だった。彭はその2か月前の5月、アルバニアを訪れ、ソ連共産党第一書記だったニキータ・フルシチョフと長時間会談したことが問題視されたのだ。
その前後から亀裂が入り始めた中ソ関係が問題の根底にあった。