【書評】『燕は戻ってこない』/桐野夏生・著/集英社/2090円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
子どもをもつかどうかは本来、カップルの意向と、最終的には産む本人の意思が尊重されるべきだ。とはいえ、周りからの圧力で意思が曲げられることも多い。
『燕は戻ってこない』は、こうした選択権の問題に、「代理母出産」という先端医療の選択肢を増やすことで、生殖に関わる自己決定権のあやふやさや、経済格差による「産む身体」の搾取を描き、社会に横たわる根本的不均衡を浮き彫りにする。
29歳になる「リキ」は非正規職員として病院の事務員をしているが、生活はつねにかつかつだ。副収入のために「卵子提供」をしようと、米国の生殖医療専門クリニックの門を叩く。そこで突きつけられたのは、自分の学歴、経歴、家庭の背景などから、卵子がランク付けされる醜悪な事実だった。
リキはこんなふうに身体を切り売りすべきか悩む。しかし一歩踏み出したのは、来年30歳になったらもう卵子提供はできないと知ったからだ。さらにリキは「代理母出産」の話を打診され、迷ったすえに引き受ける。代償は一千万円。リキはビジネスとして割り切ろうとするが、自分の中の何かがそれに抵抗する。
間に合わない──。女性はつねにタイムリミットを意識させられる。44歳になる依頼人の妻・悠子も、不育症と卵子の老化で妊娠出産はできないと診断された。彼女もまた、「間に合わなかった」と断じられた人なのだ。
その一方、悠子の夫の有名バレエダンサーは、自分の遺伝子を継いだ才能を見たいから、そして資産家の彼の母は財産の継承のために、子どもを強く望んでいる。この非対称はなんだろう。男性と女性、貧困層と富裕層。アセクシャルで結婚も出産もするつもりのない悠子の女友だちが最も的確で辛辣な批評を口にするが、彼女が威厳をもてるのも実家の経済力のおかげなのだ。
心温まる結末ではない。リキが自分の心身を削いで得た報酬で未来を切り拓くことだけを願う。性別に拘わらずぜひ読んでほしい。
※週刊ポスト2022年7月29日号