戦後初となる総理大臣経験者の暗殺事件がニッポン社会を大きく揺るがしている。なぜ悲劇が起きたのか、作家の井沢元彦氏が分析する。
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第一報でまず疑問に思ったのは警備体制だ。私は政治記者の経験もあるが、要人警護に際して「後ろから忍び寄れる」というのはあり得ない。しかも1発目は外れたのに、SPが間に割って入れなかった。なぜできなかったのか。それが気になって仕方がない。あまりにお粗末だった。
歴史を振り返ってみると、当然ながら命を狙われるのは存在感の大きな人だ。五・一五事件で暗殺された犬養毅氏などはその一例だが、反対側の陣営にとって目の上のたんこぶのような存在でないと、「殺す」という発想には至らない。
その文脈で言えば、たしかに安倍晋三・元首相は憲法改正を阻止したい人たちにとって邪魔者だろう。ただ、だから殺すのかというと、それはちょっと違う。現代においては、そんなことをすれば逆効果だからだ。そこが戦前との大きな違いである。
戦前は“やってしまえば通る”ところがあり、五・一五事件を起こした将校たちも、助命嘆願が殺到したことで死刑は免れている。戦前はそうした傾向があった。
これは海外でも共通しており、戦前のような殺伐とした社会では、「政敵を暗殺すれば争いに勝てる」といったことが世界中であった。それが少しずつ「そういうことをすればマイナスの作用がある」という考え方に変わってきた。日本では明らかにそうした変化があるし、欧州も同様だ。
嫌な言い方かもしれないが、暗殺というものの“効果”が歴史的に見れば減殺している。やる価値がなくなってきていると言えるのだ。
現代においてはその代わり、思い込みや逆恨みといったことで犯罪が起きやすくなったのではないか。戦前は「この政治家のここが間違っているから殺した」という明確な動機があったが、今は後先を考えずに自分が殺したいという思い込みで罪を犯してしまう。現代社会のストレスのようなものが背景にあるのか、問題の根深さを感じる。
そういう意味では、戦前の首相暗殺とは全く異質な事件だ。もちろん明確な動機があったとしても、暗殺など絶対に認められないが、今回のような偶発的な犯行を防ぐため、政治家の警護体制を見直すのが急務だろう。
※週刊ポスト2022年7月29日号