【書評】『旅館おかみの誕生』/後藤知美・著/藤原書店/4180円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
日本旅館のいわゆるおかみには、しばしば演技的な役目が期待される。宿を舞台とする、ちょっとしたヒロインであることをのぞむ客が、少なくない。和服の着こなしが、様になる。立居振舞にそつがない。客へのもてなしもあざやか。宴席での挨拶も、堂にいっている。そのうえ、お茶やお花、日本舞踊の心得があれば、言うことなし、と。
旅館のおかみに、そういう印象がただよいだしたのは、しかし比較的新しい。1960年代なかば以後の現象である。本格的にそんな役目がとりざたされだしたのは、1980年代からであるという。著者は、旅行雑誌の分析をとおして、以上のようなおかみ像の浮上ぶりをつかみとっている。
それ以前の女主人に、今のべたような役割はもとめられていなかった。事態をかえたのは、高度成長期における旅行の変容である。旅行者数の飛躍的な増大は、ホテルの建設ラッシュをひきおこした。洋式のホテルにはのぞめない日本情緒の演出を、旅館は余儀なくされていく。その立役者にえらばれたのは、おかみであった。
団体旅行の普及と衰退、そして家族旅行への交替は、おかみのありかたをどう左右したか。旅行者にしめる女性客比率の増大は、いかにうけとめられたのだろう。旅行業全般における経営の合理化、そして最適化の趨勢はおかみをどうかえたか。また、従業員気質の推移があたえたインパクトは、いかばかりであったろう。
著者は複雑にからまりあう旅行事情を腑分けして、おかみとのかかわりを分析する。その過程で、メディアがおかみ像を増幅した背景を、あぶりだす。また、定型的なおかみ像が少なからぬ旅館でめいわくがられている様子も、抽出した。ここが、じつにいい。
旅館ではたらくおかみは、家事や育児をどうこなしているのか。祭礼をはじめとする地域とのつきあいは……。オフィスワークを中心にすえた女子労働の研究では見えない部分へ、光があたっている。今という時代をとらえる新しい民俗学が、私にはたのしめた。
※週刊ポスト2022年7月29日号