支えてくれた人たちへの感謝を、羽生結弦(27才)は会見で何度も繰り返し口にした。シニアデビューから12年、ジュニアから通算するともっと長く没頭してきた競技人生の傍らには必ず、会見では触れなかったが、母親の姿があった。仙台からカナダ、ソチから平昌。母と息子は一心同体となって、限界まで走り続けた。
7月19日、羽生が都内で会見を開き「プロのアスリートとしてスケートを続けていくことを決意いたしました」と競技の第一線を退く意向を表明した。
最後の4年間は4A(4回転半ジャンプ)という大きな目標を掲げながらも、深い葛藤の狭間で苦しんでいるようにも見えた羽生。そんな彼を支え続けてきたのは、家族、とりわけ母親だった。
3連覇への期待を背負いながら4位入賞という結果に終わった今年の北京五輪。直後の会見で語ったのは、五輪への率直な「恋心」だった。
「このオリンピックが最後かと聞かれたら、ちょっとわからないです。オリンピックはやっぱり特別。何より、けがをしても立ち上がって挑戦するべき舞台はフィギュアスケートで、そんなところはほかにはない。また滑ってみたいという気持ちはあります」
そして、「挑戦とは?」との問いに対しては、「守ることも挑戦だと思う」と答え、こう続けた。
「大変なんですよ、守るって。家族を守るのも大変なことですし、何かしらの犠牲や時間が必要だったりもしますし」
家族──その存在は確かに、羽生が世界の頂点に立つために、欠かせないものだった。杜の都・仙台。羽生はその街の北西エリアに生まれ育った。家族は両親と姉。家賃5万円の県営住宅に暮らす、特別に裕福なわけではない普通の家庭だった。4才で始めたフィギュアスケートは、お金がかかる競技だった。
「フィギュアはコーチ代や遠征費用など、上を目指すほどお金がかかるスポーツ。羽生くんが小学生の頃、一時“スケートをやめるかどうか”家族間で話し合われたこともあったそうです。でも、お母さんが“私がパートを増やすから”と、続けることを決めたそうです」(羽生家の知人)
競技を彩る華やかな衣装にも費用がかかる。世界選手権に初出場した2012年頃まで、母親の手作りの衣装を着ていたという。羽生自身もその頃を振り返り《夜更かししてまで衣装を作ってくれる母親の愛情を感じながら滑っています》と語っていたことがあった。