無数のフラッシュの前で「私がいま侵されている病気の名前、病名は『がん』です」と語ったのは、逸見政孝さん(享年48)。平成を代表する名司会者による「告白」があったのは、がんがまだ“不治の病”で、公の場で語ることがタブー視された時代。前代未聞のメディア公表を経て闘病に入った父の壮絶な最期を、長男でタレントの逸見太郎さんが語る。
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父は寡黙で厳格で、昭和の父親像そのものでした。褒められた記憶はなく、学校の成績で1位になっても「まだ上がいる。もっと頑張れ」と。
子供ながらに寂しい気持ちがありましたが、いま思うと、毎日生放送のニュース番組に出ていて、子育ては完全に母に任せていたと思います。僕も同じテレビの世界に足を踏み入れ、親になってそう思います。
フリーに転身した1988年頃からは気持ちに余裕が出たのか、家族で父の番組を見ることがありました。『夜も一生けんめい。』で床に転がる場面など、父にそんな一面があったのか、とびっくりして見ていました。
僕が小学生の時、まず叔父が32歳の若さで胃がんに罹り亡くなりました。それ以来、父はがん検診は受けていたようです。
父は会見の前、1993年の1月に最初のがん告知を受け、翌2月に手術をしています。当時は米国留学中で、母から電話で知らされました。「とにかく学業に専念せよ」と父からの伝言があり、帰国はしませんでした。
治るのかね?
9月に会見が行なわれた後、父からの手紙と、会見時のビデオが米国に届きました。寮の部屋で手紙を読み、ビデオを見たのを覚えています。
手紙には「とてつもなくデッカイことをしたような気がする」と書かれ、会見の高揚感が伝わってきました。1000件以上の激励の電話やFAXが「ベッドの上のパパにとっては本当に大きな励みになっている」と喜びが綴られるなど、父の手紙の言葉には驚きました。
思えば寡黙な父も、手紙ではいつも饒舌でした。最後には必ず「太郎のことを一番心配しているパパより」と書いてくれていた。その言葉が嬉しかったのを覚えています。