5月に公開されたた映画『トップガン マーヴェリック』が大ヒットを記録しているが、もう1つ話題を集めたのが、同作品の字幕翻訳を担当し、長年、主演のトム・クルーズの通訳として活躍してきた戸田奈津子さん(86才)が“通訳引退”を表明したこと。フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』で一躍売れっ子の字幕翻訳者となった戸田さんにとって、仕事のモチベーションとなったのは何か。【全5回の第3回。第1回から読む】
想像力があれば太鼓にも未来にも宇宙にだって行ける
東京タワーの完成に明仁親王(現在の上皇陛下)の婚約──戸田さんが大学を卒業した1958年は明るいニュースに沸いた年だった。特に正田美智子さん(上皇后美智子さま)との婚約が巻き起こした“ミッチー・ブーム”も相まって、当時の若い女性は学校を卒業後、数年働いた後に家庭に入るという生き方がスタンダードとなった。
そんな中で大企業を辞め、お見合いの話も断り、アルバイトで生計を立てる戸田さんの生き方はかなり少数派だったといえるだろう。字幕翻訳家として花開くまで“夢見る力”を持ち続けることができたのは根底に「自分のことは自分で決める」という哲学があったからだ。大学生の頃、ヘンリー・ジェイムズの『ある貴婦人の肖像』という小説を読んだことがきっかけだった。
物語の舞台は19世紀のイギリス。貴族に生まれ、何不自由なく暮らしていた美女がお金持ちからの引く手あまたのプロポーズを断り、自分が選んだ男性と結婚する。しかしこの男はとんでもない詐欺師で、結婚によって女は不幸のどん底に落ちるが、彼女は何の釈明も泣き言も言わず、運命を受け入れる。
「なぜあんな男と……と不審がる周囲をよそに、彼女は最後まで『私が彼を選んだのだから、それは自分の責任。人は自分の選んだ道を歩まねばならない。たとえそれが他人から見れば、不幸な人生であっても』と言い切り、毅然と生き続けるのです。
主人公のこの凜とした態度や自分の人生に責任を取ろうとする強さに強く影響を受けて、私もまわりに迷惑をかけない範囲で、人の意見に流されずに自分の好きなことを目指して、その責任を引き受けようと心に誓いました。ですから当時も、周囲と違う生き方をすることに迷いや不安はありませんでした」
時代や国籍、人種や家柄が異なる人間の生き方を追体験して、感動したり学んだりすることができる──それこそが映画や小説の大きな力であると戸田さんは語る。
「ひとりの女の一生で体験できることなんて、ほんのわずかじゃないですか。だけど想像力さえあれば、ドレスの裾が広がった貴族の娘になれるし、太古でも未来でも、宇宙にだって行ける。それが映画や本が与えてくれるいちばん素敵なことだと思います」
字幕を通じて観客の想像力をかきたてる。それが彼女の生きがいなのだ。
「私自身、映画が好きで映画にいろんなことを教わって何度も感動したから、映画がもたらしてくれる楽しみや喜びを大勢の人に知ってもらいたい。それが仕事を続ける上でのいちばんのモチベーションになっています」
(第4回へ続く)
文/池田道大 取材/辻本幸路 撮影/田中智久
※女性セブン2022年8月18・25日号