世界で戦えるマラソン選手の育成──そのことに心血を注いだのが、早稲田大学競走部の監督などを歴任した中村清(1985年没、享年71)だ。エスビー食品陸上部監督時代には、有望選手が次々と“中村学校”の門を叩いた。その指導法には、「常軌を逸している」と言われるほどの凄みがあった。(文中敬称略)【全3回の第3回。第1回から読む】
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瀬古利彦(現・日本陸連副会長)は早大卒業後もエスビー食品陸上部で、同部監督を兼ねるようになった中村の指導を受ける。瀬古は「何の疑問も抱かなかった」と話す。
「大学3年の箱根駅伝が終わった(1979年)1月3日に監督の家の風呂に入っていたら、“お前の就職が決まったから”と言われました。どこですかと聞くと、エスビーだと。ピンと来なかったけど、“ハイ、わかりました”とだけ答えました」
その後、早大のライバルにあたる強豪・日体大の主力選手が次々とエスビーに進むことが決まっていく。瀬古が言う。
「私のイメージではエスビーは“中村学校”でしたね。中村監督という校長先生がいて、この人の言うことが正しいと思う選手が集まってくる」
日体大から加入した一人が、モスクワ五輪5000m代表に決まっていた中村孝生だ。現在は立正大学陸上競技部駅伝部門監督の中村がこう語る。
「中村清先生と初めて話したのは大学2年で陸連のヨーロッパ遠征メンバーに選ばれた時です。“頑張っているね”と声を掛けられた。その後、何度かアドバイスを受ける機会があり、その通りにして結果が伴った。この人の助言には間違いがない、という印象が強くなっていきました」
その中村孝生と日体大の同期で、のちに1988年ソウル五輪のマラソン日本代表となる新宅雅也も、“中村学校”行きを決意した。新宅はこう話す。
「フォームで悩んでいた時期に、瀬古君の指導でヨーロッパ遠征に帯同する中村監督に相談したら、“俺なら3か月で直せる”と断言された。この人に指導を受けようと、その時に決めました」
ただ、日体大からのエスビー入りはすんなりとは決まらなかったという。前出・中村孝生が言う。
「日体大関係者の間で大問題になりました。どうも大学の問題というより、中村先生のところに瀬古、新宅、中村の3人が集まるのを日本陸連がよしとしなかったようです。陸連は中村先生が思い通りにならない存在で手を焼いていたとも聞きます」
あまりに個性的な指導は当時も異端視されていたようだが、それでも“中村学校”で指導を受けたい思いは変わらなかった。
「反対を押し切って入社してからは、結果を出すための練習がどういうものか強く意識させられました。“エスビー軍団”とよく言われますが、中にいると軍団というイメージはない。中村先生が基本的な練習の考え方は決めますが、細かくは瀬古、新宅、中村と三者三様に自分で練習を組み立てて、大会に合わせて調整していくのです」(同前)
繰り返し伝えられたのは「才能は有限、努力は無限」という言葉だ。
「結果が出ないのは努力が足りなかったということ。自分に厳しくしないといけない。そういう考え方が重要と学びました。あとはやはり、中村先生の迫力です。“銃の引き金を引いていたから人差し指の太さが違う”と話していた。たしかに、人差し指が親指くらいある。それで“陸上は結果が悪くても命まで取られない”と言われると、ウッとなりますよね」(同前)