8月16日、西武の内海哲也が今季限りでの引退を発表した。通算135勝の内海は、2003年に巨人に入団、2006年から始まった原辰徳監督の第2次政権下で6度の優勝、2度の日本一に貢献した。2019年、FAで巨人に移籍する炭谷銀仁朗の人的補償として西武に移籍。西武では2勝に終わったが、兼任コーチとして若手の成長を促した。スポーツライターが話す。
「原政権のエースと言えば、真っ先に内海が思い浮かぶでしょう。特に巨人軍史上最も優勝から遠ざかっていた2000年代半ばの暗黒期から脱出できたのは、内海の成長に依るところが大きい。面倒見も良く、投手陣のリーダーでもあった。若手時代は同じ左腕の高橋尚成を慕って自主トレを共にし、高橋尚がメジャーに移籍して自分が中堅になったら、東野峻や山口鉄也などの年下選手たちと一緒に自主トレをして、巨人の伝統を受け継いでいった。勝ち星以上にチームへの貢献度は高かったと思います」(以下同)
敦賀気比高校の大型左腕として注目を集めた内海は、かつて巨人の野手だった内海五十雄が祖父だったこともあり、巨人入りを熱望。2000年のドラフト会議でオリックスから1位指名を受けるも入団拒否して、東京ガスに進んだ。そして、2003年オフに自由枠で巨人に入団した。
「当時は1年目に日本一になった原監督がフロントとの確執から2年で電撃退団し、堀内恒夫監督が就任したばかり。2人の退団、就任会見で渡邉恒雄オーナー(当時)が『読売グループ内の人事異動』と発言したことで、巨人のイメージは悪くなっていた。それだけに祖父と同じ背番号26を付けた内海の“ジャイアンツ愛”に痺れたファンもいたでしょう」
内海は原監督の第2次政権が始まった2006年に初の2桁勝利となる12勝を挙げる。2007年には奪三振王を獲得し、14勝で5年ぶりの優勝に貢献した。2011年からは2年連続最多勝に輝き、2012年には日本シリーズのMVPを受賞した。
「この飛躍を語る時、堀内監督が我慢して使ったことを忘れてはいけません。内海自身も堀内さんに感謝しており、あの2年間がなければ通算135勝も上げる投手になれていたかわかりません。内海にとって恩人の一人でしょう」