自民党が旧統一教会汚染の問題をいくらクリーンにしようとしても、最大派閥の安倍派を排除しない限り、それは難しい。今回の内閣改造で、岸田文雄・首相には全くその力などないことがはっきりした。自民党はこのまま、安倍派とともに沈むのか──。
安倍派の正式名称は「清和政策研究会」(略称・清和会)。安倍晋三氏の祖父、岸信介・元首相が率いた岸派を源流として福田赳夫・元首相が創設し、安倍氏の父・晋太郎氏へと受け継がれた名門派閥だ。
だが、自民党の派閥の歴史では、池田勇人氏が創設した宏池会(岸田派)や田中角栄氏の流れを汲む旧経世会(茂木派、平成研)が「保守本流」と呼ばれるのに対し、清和会(安倍派)は長い間、傍流の派閥とされてきた。
自民党と旧統一教会の関係は、傍流派閥だった清和会が、党内で力をつけるために結びつきを強めてきた経緯がある。安倍家と旧統一教会の接点は岸信介氏から始まるが、派閥としての関係に広げたのは自民党幹事長や外相を務めた安倍晋太郎氏だった。
安倍氏の生い立ちと安倍家の政治的系譜を描いた『安倍晋三 沈黙の仮面』の著者で政治ジャーナリストの野上忠興氏が語る。
「晋太郎さんはポスト中曽根の総裁選で当時の最大派閥・経世会を率いていたライバルの竹下登氏に敗れた。それからは『(総理になるには)やはり数だ』と口癖のように語り、派閥拡大のために新人発掘と選挙応援に力を入れた。しかし、当時は自民党の主要な支持基盤である建設業界票や郵政票、農業票は経世会がガッチリ握り、財界の名門企業は伝統的に宏池会(当時は宮沢派)支持だったから、傍流の清和会は支持基盤が少なかった。
そうしたなかで子分を増やすためには無理な票集めが必要になり、岸さん以来の関係があった旧統一教会の政治団体、国際勝共連合の集票力を大いに頼みにしなければならなかった。その支援もあって、晋太郎さんは1990年の総選挙で派閥の新人を20人以上当選させて勢力を増やしたが、翌年、志半ばで病で亡くなった」
この1990年総選挙で初当選したのが晋太郎氏の元秘書で、安倍晋三氏の大学の先輩でもある古屋圭司・元拉致担当相だ。古屋氏はかつて旧統一教会との関係について、〈故・安倍晋太郎氏の紹介で、セミナー、集会に参加。初選挙時、雑用係5人を受け入れた〉(『週刊現代』1999年2月27日号)と説明している。