ついに北条家の最大のライバルである比企一族が滅亡させられ、物語はクライマックスに突入しようとしているNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。ますます熾烈な権力闘争を楽しむために、後半戦に残された「謎」を専門家が解説する。
「承久の乱」で北条はなぜ朝廷側に勝てたのか
物語のクライマックスと目されるのが1221年の承久の乱だ。鎌倉時代に詳しい歴史学者の細川重男氏は、こう話す。
「後鳥羽上皇(尾上松也)が『義時を討て』との宣旨を出して始まった戦いです。後鳥羽上皇は幕府の御家人にも命令を出し、義時(小栗旬)や政子(小池栄子)を倒した人間を幕府のトップに据えて関東を支配するつもりで、“幕府で内乱が起きるから朝廷側の楽勝だ”と考えていました。しかし結果は逆でした」
ここで勝利を導いたのは政子の胆力だった。朝廷からの「義時討伐命令」に心中穏やかでない幕府の御家人らに、政子は有名な演説をした。
〈頼朝さまのご恩は山よりも高く海よりも深い。今こそそのご恩に応えるときです〉
これに心が動いた御家人たちは一致団結する。
「義時たち御家人は集まって朝廷軍に対する作戦会議を開きます。しかし、いくら話し合ってもどの作戦をとるか決まらない。そこで義時は政子に意見を仰ぐと『こちらから京都に乗り込まないと勝てない』と言った。ただし、『鎌倉の武士だけでは兵の数が足りないから、武蔵国の武士たちを集めてから出陣しなさい』と指示を出した。
なかなか兵が集まらないなかで、政子は80歳を過ぎた官僚御家人で幕府の長老でもある三善康信(小林隆)にも意見を求めて、最終的に『(義時の息子の)泰時(坂口健太郎)軍が京都を攻める』との方針を決定し、泰時が即座に出陣します。すると幕府が潰されたら自分たちの所領がどうなるかわからない御家人らが朝廷と戦う覚悟を決めて、泰時軍に続きました。このため幕府軍は各地で激戦を突破して一気に京都を落とし、後鳥羽上皇は隠岐島に配流されました。結果的に、政子が幕府の意思決定に強く関わったことで侵攻作戦が成功を収めたのです」(同前)
時代劇研究家のペリー荻野氏はドラマとしても見ごたえのある戦いになると語る。
「京都の朝廷が幕府の権力者討伐のため挙兵するというのは江戸時代では考えられないですが、それほど後鳥羽上皇は血の気が多い性格だったのでしょう。不安に駆られた幕府の御家人たちが政子の演説で奮い立ち、団結して鎌倉を見下していた後鳥羽上皇を成敗するという一連の流れは、見ていてスカッとするはずです。感じが悪いイヤな上皇を見事に演じる尾上さんの、“負けっぷり”が楽しみです」
※週刊ポスト2022年9月2日号