【書評】『日常生活の精神病理』/フロイト・著 高田珠樹・訳/岩波文庫/1584円
【評者】香山リカ(精神科医)
「ほら、あの女優。『夢千代日記』に出てた」「あー、清楚だけど芯が強い」「そう、倍賞千恵子でもないし大原麗子でもなくて」。「吉永小百合」という名前が出てこない夫婦の会話だ。
ふたりは「お互いトシだねえ」と笑って話を終えるはずだが、精神分析の祖・フロイト博士はそれでは許してくれない。「ヨシナガサユリという名前は、あなたたち夫婦にとって不快感を呼び起こしかねない記憶と結びついている。それは度忘れではなくて、心を守ろうとする防衛、逃避の反応なのだ」と言うだろう。
フロイトといえば、心の奥に「無意識」という本人にも解読不能のエリアがあることを発見した精神分析医として、誰もが知っているはずだ。本書でフロイトは、度忘れ、うっかり間違い、置き忘れやカン違いなどのよくあるミスにも、実はその無意識が関係していることを解き明かしていく。
そのときは「たまたま言い間違えただけ」と思っていても、そこに無意識の願望が現れていることもある。たとえば、職場で「ハジメさん」を「ミツルさん」と呼び間違えたとしたら、そこには「この仕事、始めたくないなあ。早く時が満ちて終わらないかなあ」という願望が関係している、という具合だ。「そんなバカな。考えすぎだよ」と思う人へのフロイトの反論を、本文から引用しよう。
「恋人とのデートをうっかりすっぽかしてしまった男は、申し訳ないが自分はすっかり忘れていたのだと弁解しても聞き入れてもらえまい。すかさず彼女は『(中略)もう私のことなんてどうだっていいのね』と答えるだろう」
ほかのことも同じでどんなうっかりミスにも無意識の意図は透けて見えている、とフロイトは言うのだ。
なんておそろしい。でも、なんておもしろい。本書には誰もが若き日に一度は関心を持ったはずの精神分析のおもしろみがいっぱい詰まっている。しかも、今回出た新訳はとても読みやすく、巻末にある「事例一覧」だけ見ても、話のネタになること請け合い。夏の教養書として一読をおすすめする。
※週刊ポスト2022年9月2日号