【書評】『武漢コンフィデンシャル』/手嶋龍一・著/小学館/398ページ/1870円
【評者】谷口智彦
インテリジェンス小説という独自の境地を拓いてほとんど無人の沃野を行く著者による最新作は、時代にぴったり合ったニュース性、時空のフィールドにクロスボールを大きく蹴り込むプロットの躍動、それらを支える細部の執拗な描き込みの三点どれをとっても、力こぶの入った作。著者の会心作だろう。
年来のファンは、これまで手嶋宇宙に散らばる星座──馬、祇園、香道などなどの絢爛に魅入られてきたことだろう。次にどんなヒトや出来事が一等星になって現れるかと期待するのが正しい読者心理のもち方であろうが、本作では期待に違わぬ新星がいくつか現れる。時代を超え、大三角形をつくるのを知る。それはひとつには、ウイルス学だ。
中国共産党の野史がそこに絡み、掌中に宇宙の深淵を見せる青磁の皿が、スタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」で人間を蠱惑する存在として登場する黒石状の謎の物体モノリスさながら、因縁と怨念の街・武漢の過去と現在を結ぶ。ここらが、著者のプロットの躍動が読者を思うさまぶん回すところだ。
物語がページを繰らせるスピードを加速させ続ける後半部分、「蝙蝠女の誕生」を描いた298ページからの節に、雲南省のとある洞窟で這いつくばり、蝙蝠の糞を集める中国人女性研究者の話が出てくる。
COVID-19が人類社会を襲う前、コロナウイルスとして恐れられたのはやはり中国由来のSARSだった。その天然の宿主が何かつきとめることができたなら、ワクチンの開発など対抗策を講じるのが容易になる。
やがて「蝙蝠女」は、調査対象を雲南省・省都昆明の郊外にある「燕子洞」に絞る。その縦穴洞窟に棲むキクガシラコウモリこそがSARSの自然宿主であることを、「5年の歳月を経て」、彼女はつきとめたと本書は言う。
この辺りでにわかに物語は、著者が冒頭に置いた伏線との折り合いをつけ始める。本書が「プロローグ」で語り起こすのは、「武漢2019年11月」の出来事だ。
場末の無免許医を、高熱を発した出稼ぎ労働者が訪れる。そのレントゲン写真の示すところ「男の肺は不自然に膨れあがっている。肺の内部に体液が溢れだし、洪水に見舞われたような症状を呈し」ていた。──この数行で、読み手のわれわれは、描かれた病状はコロナが引き起こした間質性肺炎に違いあるまいと見当をつける。やはりこの話は、武漢に第一号患者をもった、あのいまわしいパンデミックにつながるのか。
冒頭の最も意味深なプロットをいよいよ物語が引き受けにかかるとき、燕子洞での発見を描いたくだりこそは、ディテールとしてこのうえなく重要なところだ。